隠されたる神

アラスカ・クリスチャン・チャーチ 大川 正已 師
(奈良福音教会・前牧師)

 ルターにおける「隠されたる神」と言う表現は、ルター神学における最もルター的な表現である。ルターは神を問題にする時、理性に現れないで、信仰に現れる神を考えるのである。キリストは十字架に死んだものであるが、同時に「復活した神」、理性、自然に隠されている神である。
 神は理性には隠されている。神は一般には理解されない。神の言葉に満足する信仰こそが、隠されたる神を知るために、求められねばならない。隠されたる神は、信仰の、最高の段階においてのみ、可能な対象として現われるのである。信仰こそがよく神の怒りの背後に神の愛を認め、両者の間に統一を認め得るのは、信仰のほかにないのである。       
 ルターと神秘主義における相違
 神秘主義は、超越的、不可思議な、不可認識的な神を言う事を強調する。エックハルトは「神は自分自身では、超実在的非有実在だ、被造物の理解に対しては無だ。」と言う。エックハルトは、神の性質が自らを啓示しえない、と説く。タウラーは「知られざる神は、非対象性の暗黒な不可接近性における、すべての啓示の彼岸に、君臨する神である」と説く。アレオパゴスのいわゆる知られざる神を隠されたる神にして説いている。
 ルターの「隠されたる神」は、人が感覚しうるもの、所有しうるもの、理解しうるものに、隠されているの意味である。それ故、信仰にのみ啓示される。
 1513年ー1515年の「詩篇講解」において、ルターは創造者なる神を隠されたる神として評価した。1515年ー1516年の「ロマ書講解」においては、救済者なる神を、隠されたる神として評価した。
 「神の業は成ったときですら、かならず隠されており、理解されずにおる。しかし、それはとりもなおさず、われわれの理解あるいは思いに矛盾する相貌のもとにのみ隠されているのである。」「神の業はそれがなるまでは知らない。いつもそうしたものである。」
「このように、われわれの命は死の下に隠されている。」「われわれの肯定をすべて否定せずには獲得または把握され得たまわぬ神、その神の中に信仰が場所を得るためである。」「われわれのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3・3) すなわち、人が感知し、所有し、理解することのできる、すべてに対する否定のうちに隠されているのである。」「神はその力を示すためにパウロを立たせたもうた。
 なぜなら、神はその選びたもうたものに、あらかじめ彼らの無力を示し、彼らの力をかくして全く無に返せしめ、そのことによって、彼らが自己本来の力を誇ることのないようにせずには、み力を彼らにあらわし得たまわぬからである。」以上の言葉はローマ書講解の言葉である。救済者なる神の知恵は、我々の知恵には全く隠された知恵であってそのわざも全く隠されているのである。ルターは、神における怒りと愛とをその全体において正しく解釈しようとした人で、愛を神の固有のわざと見、怒りを神の異なるわざと見た。神は固有のわざの愛を行なうために異なるわざを行い給う。怒る神の背後に、恐るべき神秘の背後に無限の愛の無限に祝福する者をとらえる事、ルター自身の言をもってすれば、神の「否定の下に、又否定の上に、深い隠された肯定」を聞く事こそ、一つの冒険であると見ている。
 ルターは隠されたる神を、信仰の対象とすると共に、愛の対象としている。隠されたる神は、ルターの神中心の神観を最もよく明らかにしたもので、恩寵や賜物のゆえにではなく、神そのもののために、神は愛されるべきで、隠されたる神を愛の対象として、考察してゆくとき、隠されたる神に関する難問が取り去られて行く事を明らかにした。
 隠されたる神の思想の根拠は、イザヤ45章15節「救いをほどこし給うイスラエルの神よ、まことに汝は隠れています神なり」である。怒りは、神が自らを隠すマスクであって、ラテン訳イザヤ書28章21節「そのわざは異なったものである。」を根拠にした思想である。愛の神が怒りのわざをなすなら、そのわざは異なるわざと言われる。隠れたる神は根本的には、異なるわざをなす神である。この神に対しては、信仰が求められる。神の異なるわざは、信ぜられるために隠されるのである。
 隠されたる神は、否定の神である。出エジプト33章17節ー23節によれば、モーセは神のうしろを見るが、神の顔を見ないのである。神はモーセの前を通り過ぎ給うたが、神のうしろだけをみたのである。
 隠されたる神は、我々の希望に反対な事を生ぜしめる神で、神のかくのごときわざは、悪しきわざとして見るべきではないので有る。ここに当然、神のわざに対して、信仰者と不信仰者の区別が現れる。一方に於いて、神は人間の運命を左右する絶大な権力者として描かれているとともに、他方に於いて、人間は信仰を有するときにのみ、神の隠されたわざを忍びうることが述べられている。不信仰者は、神の恵みに対しても悔い改めることを知らないが、義人は、神の怒りに対しても、それが彼のために、救いを造り出すことを理解しうるのである。神は傷つけることも、いやすことも、生かすことも、殺すことも自由な神である。
 ルターは隠されたる神に対して、信仰者と不信仰者とがいかに越え難き両岸におかれているかを述べている。不信仰者の最善のために贈られているものを、不信仰者は自己のために誤用するのである。神が我々を砕き、又我々を生かすとき、この隠されたる神が我々に経験される。一切の希望が消え去り、一切が希望や祈願に反対して現れるとき、いいあらわし難い嘆息が始まり、ここに聖霊の助けによって、神のわざを受け入れることが始まる。
 信仰は対立の仲裁である。殺す神と生かす神との間に立ちうるものは、信仰のほかにない。神の怒りと愛との間に立ちうるものは、信仰のほかにない。信仰がかく対立の仲裁でありうるのは、信仰が見えざるものと交渉しうるがゆえにほかならない。神は故意に、人間をして暗黒のうちに突き落とすこともある。しかしこれは、人間をして、ますます深い神観に進ましめるためにほかならない。ゆえに隠されたる神は外面からみると、まことに「否定の神」である。隠されたる神は、人間のうちにある一切を否定し、これを破壊しようとする。ルターはこの意味において、神を否定的本質と呼ぶのである。無条件的、絶対的な信仰の対象としての否定的本質としての神を説くのである。
 ルターにおける隠されたる神は、啓示において、神秘な神である。その神の意志の性質が知られることによって、隠されたる神はキリストにおける神と一致する。ルターは隠されたる神のわざが「霊的」であることと同一の意味に解しているが、又神が結局、不可解な意味において隠されると言うことは、信仰の段階に必要なことであるが、隠されたる神は、人を捨てる神でありながら、人から愛されることを求める神であることが明らかにされるのである。
 隠されたる神は、十字架の神学の中心である。それは間接的神認識である。
 隠されたる神は、啓示のために隠されておられる。「人間は、他に与えないために自分のものを隠し、神は、ご自分のものをあきらかに示すために隠したもう。ご自分を隠すことによって、神は啓示の障害、すなわち、高慢を除くよりほかのなにをもしたまわない。」