JEC憲章

前文

 私たちJEC(日本福音教会)は、JEC信仰告白に基づき、ローザンヌ誓約、マニラ宣言に賛同し、イエス・キリストの再臨に至るまで、聖書信仰に立つ国内外の諸教会、宣教団体、諸団体と協力しつつ、世界宣教と愛の奉仕、正義と平和を求めることを通して、キリストの身体であり花嫁なる教会形成に邁進する群れである。

JEC信仰告白
第1条 沿革

 私たちJEC(日本福音教会)に属する教会と教会員は、スウェーデン・オレブロミッション(現インターアクト)の宣教師であった故ヘルゲ・ヤンソン師によって1950年に宣教が開始され、後に続く数多くの宣教師の方々によって、以来50年にわたる歴史の中で、培われ、引き継いできた信仰を、以下の如く告白(宣言)する。

第2条 特徴(性格、性質、キャラクター)

 私たちは、超教派的に見ればバプテスト(浸礼派)に属し、キリストにある(IN CHRIST)者であることを標榜(強調)し、主が与えられたカリスマ(聖霊の賜物)を認め、尊び、これを有効に用いる聖徒たちによって教会が建て上げられ、成長させられ、神の国が拡大されることを信じる。

第3条 聖書

 私たちは、旧新約聖書66巻は聖なる霊感によって記された誤りなき神の言葉であり、信仰と生活のすべてにおいて絶対に信頼し得る最高の権威を有することを信じる。

第4条 三位一体

 私たちは、生きておられるまことの神は唯一であって、父、子、聖霊が三位においてひとつであり、永遠に存在される神性と人格を有しておられることを信じる。

第5条 父なる神

 私たちは、父なる神が天地の創造者であり、これを保持、統治され、聖において完全、全知全能にして、恵みと愛に富み賜う方であることを信じる。

第6条 御子イエス・キリスト

 私たちは、イエス・キリストが、父なる神のひとり子であり、聖霊によって受胎し、処女マリヤより生まれ、罪のない生活を送られ、十字架にかかって世の罪の贖いのために身代わりの死を遂げ、葬られてよみにくだり、三日目に肉体をもってよみがえり、天に昇り、ご自分の民のために大祭司としてとりなしの祈りをされており、ご自分の王国を建てるために見える姿で再びこの世に来られることを信じる。

第7条 聖霊

 私たちは、聖霊が罪と義と裁きについて人にその誤りを認めさせ、信じる者を新生、聖化し、キリストに結び付け、救いの保証となられること、またすべての聖徒に内住され、助け、教え、導き、励まされ、慰められるお方であると信じる。私たちは、聖霊のバプテスマ、九つの賜物、聖霊による結実を信じる。また、聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしは明確な体験であることをも信じる。

第8条 罪、赦し

 私たちは、すべての人が生まれながらに、その性質においても、思いにおいても、言葉、行為においても罪あることを認める。しかし、キリストを主、救い主と信じ受け入れるものは罪赦され、神の御前で永遠の生命を喜ぶものとなり、キリストを拒むものは刑罰を受け、永遠に苦しむものとなることを信じる。

第9条 教会

 私たちは、教会がキリストを頭とし、新生した人々のみが肢体であるところの生ける霊の身体であると信じる。また、目に見える地方教会は、イエス・キリストを信じる者の交わりであり、信徒は、バプテスマによってキリストと共に葬られ、よみがえらされ、礼拝、奉仕、福音伝道、相互援助において結ばれることを信じる。これら地方教会には、浸礼による洗礼と聖餐の礼典がゆだねられており、それぞれの地方教会は自治独立しており、それを基として他の地方教会との相互依存関係を保つものであることを信じる。

日本福音教会年表 -JECの歩み-

1949年12月8日ヤンソン師一家来日
 12月31日最初の集会(辻本氏宅)
1950年4月堺市、和田庄洋裁学にて伝道開始
1952年2月3日堺福音教会 教会設立
 2月29日和歌山福音教会 開拓開始
 2月 奈良福音教会 開拓開始
 12月25日奈良福音教会 教会設立
1953年12月8日八尾福音教会 開拓開始
1954年1月3日最初のミッション合同新年聖会
 10月28日和歌山福音教会 教会設立
1955年3月岬福音教会 開拓開始
3月8日宣教師館完成
12月11日八尾福音教会 教会設立
1956年7月26-29日第1回ミッション合同聖会(生駒聖書学にて)
1957年10月オレブロミッション最初のバイブルコース開始(ヤンソン師宅)
1960年11月6日岬福音教会 教会設立
  大阪福音教会 開拓開始
1961年9月12日福音聖書学院開設(大仙町)
12月17日大阪福音教会 教会設立
1962年3月18-22日第1回高校生修養キャンプ
 11月16日第1回合同婦人集会(堺)
1964年5月堺平岡福音センター 開設伝道開始
1965年12月 垂水福音教会 開拓開始
1966年5月1日ペトリ博士関西福音センター開設(西宮)
聖書学院をここに移転。関西聖書学院(KBI)と改称
8月16日垂水福音教会 教会設立(JECに加入せず)
12月18日泉南福音教会 開拓開始
1967年3月26日堺平岡福音教会教会設立(現・堺シオン福音教会)
1968年7月奈良福音センター 伝道開始
1969年10月 千代田福音教会 開拓開始
 12月21日西宮福音教会 教会設立
1970年3月22日泉南福音教会 教会設立
9月1日国分福音教会 開拓開始
1971年3月21日松原伝道所 開所式
 6月20日狭山伝道所 開所式
 10月 東大阪福音センター 開設
 11月 川西福音教会 開拓開始
1972年4月28-30日オレブロ・ミッション20周年記念聖会(葛城山)
11月19日八尾栄光キリスト教会教会 設立献堂式
1973年3月 東大阪福音センター 閉鎖
 3月18日河内長野福音教会 開所式
 4月10日上郡福音センター 開拓開始
 11月18日オレブロ・ミッション、教会連合、同意書調印
1974年3月21日日本福音教会設立総会(於:堺)
4月21日八尾南福音教会 開拓開始
1975年6月8日松原福音教会 教会設立
 9月15日国分福音教会 教会設立
 12月14日JOCSバングラディッシュ後援会結成
1976年2月22日狭山福音教会 教会設立
4月11日千代田福音教会開所式(河内長野より移転)
4月25日奈良福音センター、奈良福音教会と合併
9月12日西明石福音教会 開拓開始
1977年1月10日JECだより第1号発行
 2月20日八尾南福音教会 教会設立
1978年4月9日千代田福音教会 教会設立
1979年5月6日泉佐野集会(和歌山福音教会)開拓開始
 8月4日ヘルゲ・ヤンソン師召天
1980年3月16日箕面福音教会 開所式
6月8日志紀クリスチャンセンター開設(現・八尾福音教会曙チャペル)
1981年4月1日宝塚福音教会 開拓開始
 10月18日南大阪チャペル(堺福音教会)開所式
 11月15日西明石福音教会 教会設立(現・明石福音教会)
1982年4月恵みの家 開拓開始
4月鳥栖福音キリスト教会JECに加入(現・小森野キリスト教会)
1983年3月6日名張つつじが丘チャペル(八尾福音教会)礼拝開始
 4月18日川西福音教会 教会設立
1984年2月11日連合壮年会結成総会
4月30日平田キリスト教会JECに加入
6月3日五條伝道所(奈良福音教会)開所式
6月17日泉北チャペル(堺福音教会)開拓開始
8月2日山陽福音センター(堺シオン福音教会)開拓開始
1985年10月13日西神チャペル開所式
1986年2月2日箕面福音教会 教会設立
5月25日宝塚福音教会 教会設立
11月23日南大阪福音教会 教会設立
11月24日上郡福音教会 教会設立
1987年3月22日岡山チャペル(堺福音教会)開拓開始
 4月12日東京チャペル(堺福音教会)開所礼拝
1989年3月31日泉佐野伝道所 閉鎖
4月26日大阪平野チャペル(八尾福音教会)開所式
4月29日田無新生キリスト教会JECに加入(現、東京グレイス福音教会)
6月11日名古屋クリスチャンセンター 開所式
1990年5月24日宣教40周年記念聖会(池田市・不死王閣)
1991年4月14日香芝ゴスペルチャーチ(南大阪福音教会)発足
1992年4月29日小倉南キリスト教会(松田洋好師)JEC加入
 6月 大田宣教師家族インドネシアヘ出発
 11月 西神キリスト教会教会設立
1994年3月20日信濃チャペル(堺福音教会)開拓開始
4月18日三国クリスチャンチャペル(堺福音教会)開拓開始
4月24日チャペル犬山(堺福音教会)開拓開始
10月23日名古屋グレイスキリスト教会 教会設立
1995年9月 泉佐野チャペル(和歌山福音教会)開拓開始
1996年大阪福音教会 JECを離脱
1997年1月 オレブロ・ミッションはフリーバプテスト・ミッション、
ホーリネス・ミッションと合併し、インターアクトとなった。
 4月1日園田チャペル 開拓開始
 7月 ユース・キャンプ30周年
1998年10月11日沖縄チャペル(堺福音教会)開拓開始
11月平田福音教会JECを離脱
1999年2月 小倉南キリスト教会は、八尾福音教会北九州チャペルとなる。
2000年5月23日JEC50周年記念聖会(泉佐野市・泉の森ホール)
2001年1月8日本部事務所 献堂式
2月5日堺福音教会・我喜屋光雄師召天
5月12日和歌山福音教会・吉野美重子師召天
2002年1月27日八尾福音教会・藤原純子師召天
10月13日堺福音教会 設立50周年記念式典
12月23日奈良福音教会 設立50周年記念式典
2003年10月8日高橋めぐみ宣教師インドネシアへ出国(第2期)
2004年5月2日南大阪福音教会・天理クリスチャンセンター 開所式
6月1日ゴスペルハウス静岡 開所式
9月14日大阪グレイスキリスト教会 開所記念礼拝
9月20日山陽キリスト福音教会 教会設立式
10月31日和歌山福音教会 設立50周年記念礼拝
2005年11月3日関西聖書学院・生駒新キャンパス 献堂聖会
2006年5月16日井野葉由美宣教師ドイツへ出国(第1期)
7月30日ゴスペルハウスMORI in 岩出 開所式
11月26日南大阪福音教会・小松島チャペル 開所式
2007年6月20日高橋めぐみ宣教師インドネシアへ出国(第3期)
2008年5月31日安川圭吾・美穂宣教師タンザニアへ出国(第1期)
6月29日上郡福音教会・佐用チャペル 開所式
10月13日国分福音教会・富浦佳子師召天
2009年1月18~24日第1回ミッション・イニシアチブ(世界宣教ウイーク)
3月8日ゴスペルライフ甲東チャペル 開所礼拝
3月24日インターアクトとJECとのパートナーシップ合意書の授受
9月13日西宮福音教会・さんだグレイスチャペル 開所祝福式
2010年11月14日岬福音教会 設立50周年記念礼拝
2011年7月9日リネア・ニコライセン師召天
10月17~19日関西聖書学院 創立50周年記念式典・セミナー
10月24日高橋めぐみ宣教師インドネシアへ出国(第4期)
11月13日大阪グレイスキリスト教会 教会設立式
11月27日堺福音教会・泉北チャペル 教会設立式(シャローム希望教会に改称)
12月29日ブリッタ・ハーグストローム師召天

十字架その流れ1

堺福音教会 我喜屋 光雄 師(2001年2月5日 召天)
1999年5月3日 JEC春期聖会
午前の部●メッセージ「これまでの祝福」 詩篇1:1-3

 「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」詩篇1:3

 まず「流れ」について考えてみましょう。
 詩篇1:1によれば「流れ」とは御霊の流れのことであり、「恵み」です。「恵み」とは何でしょうか。例えば、エペソ1:3には「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とあります。既に引き上げられ祝福を受けている。キリストにあって天の次元にある。その次元に生きる。既に祝福を受けている。これが「恵み」です。

 エペソ1:1-14によれば神の永遠の計画がわかります。キリストにあって選ばれ、愛され、定められ、時至って、キリストの十字架を通して救われた。一人一人が選ばれたもの。クリスチャンになるべくして召された。すべては、神の絶大な愛のゆえです。なぜわたしのような者が選ばれたのかと思いますが、ともかく私は、クリスチャンなのです。主を知り、教会に連なる時、神が愛してくださったことがわかります。

 JECのこれまでをふりかえってみましょう。創立者は、スウェーデンの宣教師Mr.&Mrs.ヤンソンでした。ヘルゲ・ヤンソン師の賜物は、組織家(枠、レール作り)でした。後の働きをやりやすくされた方でした。神様はふさわしい賜物をもった方を、ベストタイミングで与えられました。優れた外交家で、大きなヴィジョンを持ち、周りを励ましました。神様のために大きな事を考える方でした。‘79年に67歳で天に召されました。Mrs.ヤンソンは1995年に84歳で召されました。
 1952年の暮れからスエーデンから着任間のない、エリック・サンベリ師夫妻(和歌山へ)、ターン師(奈良へ)、エリクソン師(ニコライセン師:八尾へ)、ホフナー師夫妻等。堺を拠点に、さらに他の宣教師が来られ、働きは広く、深く広がっていきました。その中でユニークな人物の1人がフレッド・スンベリ師です。真理の教師であり、珍しいタイプの方でした。普通スウェーデンの人はスマートさを求めます。時間を守り、気のきいた話しを好みます。そうでないとそっぽをむかれます。
 フレッド・スンベリ師は、スマートでなく真理をむき出しにし、大切な物をそのまま差し出すような方でした。ある人はその正直さに打たれ、ある人はつまずいたかも知れません。福音の真理をもって、日本の儀式的、形式的社会の中に福音のメッセージで切り込んで行きました。個人的に初期に関わり、4~5年共に働く中で、そのライフスタイルから非常な影響を受けました。

 初期の献身者の間で、それぞれ個別に取り扱われたのが「十字架」のことでした。スンベリ師の教えを中心に「十字架」の教えが摂理的にJECに流されました。そしてJECの霊の流れを形成しました。これはJEC独自のものではあっても独善的なものでなく、まさにこれが福音の中心であるし、福音の真髄を語った使徒パウロの信仰そのものです。
 パウロは「福音主義者」でした。これは幅広い言葉です。多くの教会がこれを名のります。日本では、福音主義教会とカリスマ教会が対立している状態ですが、カリスマ派も福音主義派の中にはいると思います。福音主義者とは何でしょうか。パウロは徹底した「恵み主義者」であった、と言うことが出来ます。「福音」とは「恵み」です。律法主義に対立するところの恵みのメッセージ。その原点はパウロ自身の十字架の体験でした。
 ガラテヤ2:20の御言葉によって、多くのきよめを求める人たちが変えられました。「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
 そして、「私は神の恵みを無にしません。」ということばが続いています。「私はキリストと共に十字架につけられた。」彼はそこに来るまで、自分の罪深さを深く探られました。そしてそれに比例して律法がどんなに厳しいものか経験しました。律法を行おうと努力しても決してそれを行うことが出来ないというジレンマに悩みました。「私は、なんと罪深い人間だろう。しかも正しいこと、きよいことをしようと思ってもそれをすることが出来ない。意志があっても、私の決意だけではそれをすることが出来ない。私は本当に無力だ。」彼は葛藤によって自分の罪深さ、無力さを知り、悩みました。善意があっても悪意となって現れる。もう1人の人間がいる。もはや罪を犯させるのは私でなく、私に宿るもう1人の人間、私に宿る罪。「罪の原理」が宿るのを知ったのです。(ローマ7章)

 ローマ7:24「私は、本当にみじめな人間です。誰がこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
 当時、殺人者が、殺された相手と共に穴蔵に放り込まれる刑罰がありました。自分が殺した相手から逃れようとすると、縄目が食い込み、腐敗が鼻を突く、蛆が伝わってくる。パウロの内面の葛藤が、この刑罰にたとえられられているのです。
 ここまで悩むクリスチャンは少ないと思います。私も、パウロ程ではないかも知れませんが、同じところに追い込まれました。その時、どこにも行く場所がなかったのです。その時一つの真理を示されました。ローマ7:25「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」答えは「キリスト」です。through JESUS CHRISTです。ガラテヤ2:20の体験です。キリストの死=私の死。キリストと共に十字架につけられた。では、私は?私も死んだ。この内面の問題にどう対処したらよいか。「心では神の律法(法則)に仕え、肉では罪の律法(法則)に仕えている。」のです

 ローマ8:1はそれに対する説明になっていると思います。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」キリストの死を通して、この古き人との関係が切られ、その古き人に対して責任を感じる必要がないのです。古き人は罪しか犯せません。教育も、改良も、矯正もできないのです。死ぬ以外に方法はありません。「死」以外にこの縁を断ちきることは出来ないのです。しかし私が死ぬと、みもふたもないので、私が死ぬところをキリストが死なれました。
 そして信仰は「キリストにあること」です。それは「キリストの経験にあること」です。それは「キリストの体験と一つになっていること」です。それは「キリストの死の中にある私」を認めることです。「キリストと体験を共有している私」を認めることです。すなわち、キリストを信じることの意味は「キリストが死んだ=私が死んだ」と考えることなのです。(ローマ6:10-11)
 神はこの方程式を、救いの法則として定められました。キリストが死んだとき私も死んだのです。古き人との縁はすでに切られています。だから彼のすること、彼の誘惑することについて答える必要はありません。私は責任をとらなくてもよいのです。(ローマ8:12)まさに信仰は、聖なる「横着(おうちゃく)」なのです。

 アダム以来の罪の原理から、解放するのは、十字架の法則です。それを私のものとして、当てはめる以外にありません。これは奇想天外な発想です。だから宗教的な人、熱心な人には、かえって分からないのです。パウロも熱心なパリサイ人だったので、この事に気付くことが出来なかったのです。しかし神の恵みによって、御霊によって十字架の真理が彼に示されました。(ガラテヤ1:11-12)
 十字架の真理にはいろんな側面があります。しかし、一番大きな意味は、この「合一」の原理です。“Identification”キリストと一つになる。キリストがしたことを自分のものとすることを可能にするキリストの「十字架」。
 天におられてありがたい言葉を発しても私たちのものとならない。しかし天にある恵みが私たちの生活のレベルに届いて、手を伸ばせば触れることが出来る近さにそれを置くことが出来るためにキリストは天から下り、人となり、私たちの代わりに「罪人の代表」として十字架におつきになったのです。私たちの犯した具体的な過去の罪の為だけでなく、罪の根本の問題についての解決のためにキリストは死なれたのです。
 パウロ書簡によると、「もしキリストと共に死んだ、と言うことがわかれば、キリストとも体験を一つにしたという事がわかるでしょう。」とあります。
 そして、この「十字架」の死は前奏曲です。キリストは死んでそのままでなく、墓から3日目によみがえられました。キリストの「死」「葬り」と一つとわかるなら、キリストの「復活」とも合わされていることがわかります。私もその命に含まれ、新しい命、生き方に復活したのです。

 そんなことを知らずに私たちは信じるのですが、そこまでの経過をビデオのスローモーションで見るとするなら、まず神の側で、キリストの死があり葬りがあり、結果、復活したということです。キリストを信じるという事は「キリストに含まれている」事を信じるという事です。
 「キリストにある」という自覚は、一生懸命押したり引いたりすることではないのです。キリストの「死」「葬り」「復活」に含まれている。キリスト者は「死んで葬られて復活したもの」として古き人から切り離され、キリストの復活の命に結び合わされ、古いものから、罪から切り離されて、命の原理に結び合わされているのです。

 パウロは「きよめ」を4つの事柄にたとえています。
①バプテスマ(ローマ6:3-4)
  バプティゾー(ギリシャ語)は「浸す」という意味です。染色がこの事をよく表し ています。布を染料に浸すと、内も外もその色になる。同じ糸と布なのに、以前と違 う。同じだが違う。糸の本質は変わらない。でも、糸にしみこんでいるそのものは、完 全に変わっている。例えば以前は白だったものが、赤に染められて赤色に染まった。赤 の糸に変わった。こういった意味を持ったものがバプテスマです。
  バプテスマはキリストとの関係を表します。水にからだが沈むことは葬りを表し、水 からあがることは葬りから復活を表します。「死」「葬り」「復活」は福音の真理であり、 信仰の内容そのもです。この真理に生きる、具体的なあかしが洗礼なのです。
②接ぎ木(ローマ6:5)
  渋柿の枝を切って甘柿に接ぎます。古いところから、キリストにつながれる。私た ちも渋柿で、渋い実しか実らせなかった者です。甘い実を実らせるため、キリストに 接ぎ木されたのです。
③手術(割礼)(コロサイ2:11)
  体の一部を切り取ること。ユダヤ人の間で、アラブ人の間でも今も普通に行われて いることです。コロサイ人の手紙2:11「キリストにあって、あなたがたは人の手によ らない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」
  キリストによる手術を受けて、古き人を脱ぎ捨てたのです。古き人と切り離すには 手術が必要です。以前、淀川キリスト教病院で内臓までつながった双子の赤ちゃんの 写真を見ました。昔の技術では切り離すことは全く不可能でした。昔なら、シャム双 生児のように悲惨な運命をたどった(興行師によって見世物にされる)かもしれませ ん。しかし、今は技術で切り離せます。術前と術後の切り離された写真を見たとき、こ の真理を思いました。十字架のメスで私達は古き人と切り離されたのです。
  スンベリ師が「福音とはなんと素晴らしく微妙でしょう」といったことがあります。 十字架のメスで、私たちの体の中で、毛細血管のように張り巡らされた、古き人を見 事に切り離されたのです。
④衣替え(コロサイ3:9-10)
  「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」と、聖書はしばしばいっています。私た ちは、古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着た者です。(エペソ4:21-24)
  キリストについて学ぶことは、キリストの教え、真理です。イエスにある真理とは 「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着ることです。」

 十字架の原理では、私はキリストと共に決定的に十字架につけられ、向こうで処理が済んでいることになっています。しかしうっかりすると、再び古い人と一つになってジレンマに陥いるのです。一度死んだ、キリストと共に生きている事実、真理。この原理を日々、当てはめ、応用しなければなりません。そうしなければ、いつの間にか古い人を着て行動してしまいます。動機は新しい人、しかし古い人の習慣で行動していることに気付くことです。でもどうにもならない場合があります。しかし、気付くことは大事なことです。

 エペソ4:25「ですから、あなた方は偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」
 ここでは、「愛」の問題が語られています。(エペソ4:25-32)「愛しなさい」しかし、どうやって古い人のままで愛せますか。古い人のままで愛することは、律法的になり、負担となります。すでに古い人から切り離され、新しい人、キリストと結ばれ、自分の思いを越えて、キリストが私に代わってして下さると信じることです。
 私の責任は、その人を「赦す」「愛する」意志を表明することです。たとえ気持ちがそうならなくてもキリストの命につながれていると信じて、「イエス様、この人を赦します。愛します。あなたがこの決定の通りに働いて下さい。」と祈ることです。
 古い人と新しい人と切り離すことが出来れば私は、古き人から新しい人に移って、愛の行為、実践をすることが出来るのです。

 この真理を日常生活に応用しましょう。古き人と新しい人が同居しているクリスチャンの神秘。どうして神は、この古き人を徹底的に取り去ってしまわないのでしょうか。それは神の知恵です。
 エデンの園に二本の木(命の木と善悪を知る木)を置かれたのと同じです。命の木の実を食べれば永遠に生き、善悪を知る木の実を食べれば死にます。不幸にして人は善悪を知る木の実を取って食べました。それが原因で人類は罪人となりました。罪によって死が入り、死が全人類を支配したのです。(ローマ5:12)
 どうして、そんな危険な木を神様は置かれたのか。それがなかったら罪もなかったのにと思います。それには2つの意味があります。神は私たちを神に似たものとして造られました。そして神様の特徴は自主性ということです。自分の意志で判断して選ぶことが出来るという能力です。神は人に意志の自由、選択する自由を与えられました。もし命の木のみで相反する木が無ければ、どうして自由意志を使うことが出来ますか。その存在を認めることが出来ますか。試金石がなければ自由意志はあってもないのと同じことです。善か悪か、闇か光か、右か左か、どちらを選ぶか、というところに人間の価値があるのです。
 それと同じで、古き人(善悪を知る木)を神は全部取り去られたのではないのです。また、命の木(キリスト)のみを残されたのでもないのです。私たちが、肉か霊か、御霊か行いか、恵みか律法か、自分の力かイエス様に頼るか、どちらかを選べるようにされたのです。そして自分で判断することによって自分自身がどんなものか明らかにされ、道徳的に成長できるように、古き人を切り離したけれども、古き人を取り除かれなかったのです。
 だから「御霊によって歩め」とは、即ち「キリストにある立場を選び取って生きなさい」ということです。そうすれば、「肉の欲をとげることは出来ません。」(ガラテヤ5:16)
 
ですから、神様の扱いというのは知恵に満ちています。パウロはこの恵みを終生追い求めました。これがわかったとき、彼は、たまらなくなりました。「キリストのすばらしさを十字架を通して知ったとき、自分のキャリア、経験を塵芥と思った。」と言っています。そして「いよいよ私はキリストの中にあるものと認められ、より深くキリストの死に合わせられ、より深く、力強くキリストの復活にあずかりたい。もっと深く十字架に、もっと力強く、もっと深く自分の限界能力を知ることによって、その深みにあるキリストの復活の命に触れたい。」と願ったのです。(ピリピ3:7-14)
 このパウロの生き方は、クリスチャン生活そのものです。この十字架のプロセスをいったり来たりする生活。十字架の「死」と「葬り」と「復活」。そしてもう一つ「キリストと共に天にある」というこの4つの段階をいったり来たりする。いったり来たりしている間に、いよいよこれが実感として、深く、力強くなっていく。クリスチャンの生涯は長い旅に出るというのでなく、この短い行程をいったり来たりする生活だと思います。その道として、キリストは十字架の御業をなさったのです。「わたしは道である。」と言われたその道を通じて、平生生きている俗の環境から、神の霊の天的な次元の恵みの座にいきなり、行くことが出来るのです。
 人間の弱さ、可能性など、人間のレベルで生きている中で、しかも同時に、一本の道がつけられて神の臨在にまで通じている。そしてその道を通ることによって、そこに行き日常に帰り、日常がそこにあり、霊の次元が日常にある。このような生活が十字架の生活を通して可能なのです。(ヘブル10:19-22)
 「これを生きてほしい」ということが、神様の強いすすめなのです。パウロは、このワクワクするような生活を発見しました。彼は偉大な宣教師でしたが、彼の特徴は偉大な求道者であったことです。その結果が宣教だったのです。
 
 私達の教会のあかしは何でしょうか。宣教、リバイバル、それも大事ですが、一体何を伝えるのかということではないでしょうか。何がベースになってリバイバルが起こるのでしょうか。何がベースでリバイバルは継続して行くのでしょうか。雰囲気に動かされる。ムードに踊る。それがリバイバルでしょうか。ちがいます。JECはどちらかというと、こういうところが他の団体と比べて冷めています。冷たく消極的だと思われますが、実は大事なことなのです。
 私たちは、御言葉によって臨在を経験しなければなりません。個人的に、又、日常的にリバイバルを経験しなければなりません。それを生きることが教会のリバイバルであり、そして教会からそのリバイバルが外に広がっていくということになるのです。
 用意もなく神様が突然に大きなリバイバルを注がれたとしても、そのことを教会が知らなかったということであれば、そのリバイバルは無駄になります。これを受け入れる、刈り入れるところの器である教会が一体何を知っているか。福音を知っているのか。福音を生きているのか。
 JECはこういう傾向で来ました。いよいよこれが変わった教えではなく、これこそが福音の本流であるという自負心を持って、確信を持って、自ら生きるだけではなく、もしこういうことについてあいまいな他の教会、教団、教派があるならば、私たちから彼らに証しする自負と気概を持たなければなりません。

 私自身、パウロのようにガラテヤ2:20によって大きく変えられ、それ以降十字架にとらえられる者となりました。それ以来、40年以上同じ十字架のメッセージをしています。時々うちの教会の人に謝ります。「ごめんなさい。同じ話しばっかりして。でもこの話ししかできないので、もし変わった他のお話を聞きたければ、牧師を替える以外にありません。」しかし。だいたいの皆さんは喜んで聞いて下さっています。

 これはお米のようなものです。ご飯に飽きたという人はいないでしょう。JECはこのお米を大切にします。お米で生きています。これからも生きようとしています。おかずはつくけど、基本は、お米です。
 うっかりすると、「お米なんてつまらん」と言って、変わったおかずばかりもって来て食べるようになります。はじめは良いかも知れませんが、長続きはしないと思います。そういう方向に向かっている教会、働き、運動は意外に多いのです。私たちは、これまでいただいてきたお米を、改めて評価しなければなりません。それをおいしくいただくためにおかずをつけることは大事ですけれども、お米そのものを否定することは出来ません。
 
 「私はキリストとともに十字架につけられました。」
 ややもすると私たちは、奉仕や教会生活という、よいことに対して律法的になるという罠が次に待っています。私もそうでした。韓国のある先生は、「牧師は一日3時間祈らなければならない。信徒でも一日1時間祈らなければならない。」とおっしゃいました。「先生は一日何時間祈っておられますか。」と聞かれた時に、答えに困ったことがありました。
 私は、外はまじめに見えないかも知れませんが、中は真理に対して非常にまじめです。いろんな伝記を読んで、ああいう人になるためにこうしなければならないと思いました。J・ウェスレーやメソジストの人達は朝4時に起きた、と書いてあると「自分も4時に起きなければリバイバルは起きない。」と思いました。しかしよく失敗しました。そのたびに胸をたたいて悔い改めました。「なんと言うことだ。4時に起きられないとは何事だ。」
 そして臨在に生きると言うことは、キリストを24時間、瞬間瞬間、意識して生きることだと思っていました。「あなたはこのキリストを意識していますか。」そう問われたら、正直そんなことはありません。一日に何回か思い出しているけれど、ほとんどの場合は忘れています。
 「これではいけない。臨在の生活。ここに敬虔の奥義がある。ここに力強いクリスチャンの生活がある。私も臨在の生活しないといけない。絶えることのないキリストとの生きた交わりの中に生きなければいけない。ということは、24時間寝ても覚めてもキリストを意識しなければならない。」ということで、意識し始めました。でも忘れるので、その日の晩になって激しく悔い改めました。「キリストを意識すると決めたのに、何というクリスチャンだ。何という伝道者だ。」
 「わたしにつながれ、多くの実を結ぶ」と御言葉にあります。「ああ多くの実を結ぶクリスチャンになりたい。」と思いました。そこで、「キリストにつながっています。」と意識することにしました。しかし疲れてしまいました。

 そんな時に、塩屋の神学校当時の同期の梅田先生が、秋穐師から聞いたことを話してくれました。「先生は、朝はどのようにして過ごされていますか。」という質問に、「朝はな、5時か6時に起きて、ちょっちょっと聖書読んで、ちょっちょっとお祈りして、後は肥え汲みしとるんじゃ。」(元庭師の先生で、先生の教会の庭も広い菜園であった。当時のトイレは汲み取り式であった。)
 私は「もちろん兄弟、主の前に静まって、聖書を読み、祈り、黙想する。当然ではないか。」と言う答えを期待していました。しかし、「肥え汲みしとるんじゃ。」という言葉に雷に打たれたような感じでした。私の目が開かれたのです。
 秋穐師の姿勢は、スンベリ師とよく似ています。スンベリ師は、天幕集会などでも「さあ祈って準備しましょう。」というタイプではありませんでした。思いついたら、古いテントを持ち出してきて、トラックに乗せて、「さあ兄弟行きましょう。」ぱーっとテントを張って、アコーデオンを鳴らして、人を集めて。
 最初は、割り切れない気持ちでこの先生について行きました。「祈りもしないで。」とつまずきました。ところが、この祈らないように見える先生が、祈るとすごく霊的であったのです。それでスンベリ師の生き方がわかりました。

 祈りとは、形式ではなく、プログラムでもなく、根本において、24時間主にささげているという確信に立っていく生活のことです。礼拝とは献身です。献身しているという自覚で生活することが、礼拝そのものです。ローマ書12:1はそう言う意味です。キリストが、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなた方につながっています。」「これを信じなさい。信じているということを信じなさい。信じている通りに信じなさい。」単純にそう言う意味だと言うことがわかりました。
 目が開かれました。それから、聖書を何章読むとか、何時間祈るとか、誰に伝道しようとか、どれくらい奉仕しようとかという律法から解放されました。そして全く自由に、主を信じて、主にささげた生活そのものが礼拝であり、主に喜ばれる愛される生活であり、交わりの生活である、ということを教えられて今日に至っています。

 信仰を表現すると、「既にそこにある。しようとする事が既にそこにある。完成されている。これが恵み。」と言えるでしょうか。
The finished work of Calvary.十字架において完成された御業。ヘブル書にもある、創造において、完成した御業。安息しておられる神の安息とひとつになるなら、自分のあがき、努力から解放されて安息します(ヘブル4:10)。

 パウロ書簡の鍵は、既に「キリストにあって、天にあって、祝福されている。」です。感覚においては、生活は単調ですし、恐れと心配でいっぱいです。けれど、これらは人間のレベルです。これを越えて、キリストにあって神の子とされている。愛されている。祝福されている。すべての霊的祝福でおおわれている。常識では、自分は、恵まれていないかもしれない。しかし、このレベルで考えるならば、今この瞬間わたしは祝福されています。既に完成されています。そこに移り、そこにとどまり、座る。その視点から自分の生活を見る。この世界観をもって生活することが、恵みに生きる生活であるということです。
 ですから私たちは、イエス様と結ばれ、キリストにあって既に祝福され、安息し、臨在の中にあり、サタンに勝利し、既に愛されたもの。既にすべてが与えられています。だから与える。献金する。神のレベルでは与えられている。そのように、神の国とその義とを求めなさい。そう信じなさい。そうすれば、衣食住はついてきます。教会の働きも同じです。霊的に真実であるならば、実際的にも真実。これが私たちの結論であり、理念です。そしてこの理念によって、与えなければならないのです。
 「与える」ということ、これが神の国の法則です。既に神がして下さったという視点に立って、その言葉を信じて進みましょう。これがJECの理念です。
 JECの献金の率は、他の団体に比べて高いところにあります。この恵みを知り、そこに立って生きることが身に付いているからだと思います。貴重な真理、生き方です。既に与えられているから、信仰によって与えるのです。

 「既に天にある、キリストにある」完成された神の恵みの中で生かされるという信じ方をしましょう。「既に天にある、キリストにある」これを通して御霊が働かれます。
 キリスト・イエスにあって罪に定められない。罪はあるが、罪はない者として神が認めて下さる。なぜなら、十字架によって罪の原理から切断されているからです。これがわかっているなら、キリストイエスにある、十字架に沿った原理に従っていると信じる私たちを通して神の御霊の原理は、私たちの上に力強く働いて、罪と死の原理からあなたがたを解放し続けます。御霊はあくまでキリストを通して、十字架を通して働かれます。十字架の原理に結ばれている限り、御霊の働きは、時々ではなく、日常いつも現実のお方であることを知ることが出来ます。御霊がいかに十字架の原理を通じて私たちを解放し、解放された新しいわたしを導かれるか、ローマ人への手紙8章の中に見ることができます。
 パウロは徹底した「恵み主義者」でした。JECもそうであると思います。パウロにならって、いよいよ励まされて、恵みに生きましょう。十字架はこの恵みをつくるため、神が配慮された祝福のプログラムです。

 パウロは、「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ2:2)と言っています。この恵みをまともに受け取らず、無視して生きることが、神に対する一番の冒涜です。それは、キリストの死を無駄にすることです。キリストが死なれたのは、私たちにはできないからして下さったのです。キリストがそうして下さったのなら、私たちは感謝してこの贈り物を神様から素直に受け取って、この贈り物によって、恵みによって生きる。それが神様を喜ばせることであり、福音を輝かせることであり、私自身の生活を充実させることであり、教会を生き生きとさせ、成長させていくことであると思います。
 続けて、私たちは、この恵みに生きていくお互い、諸教会、その教会に連なるところの一人一人でありたいと思います。

十字架その流れ2

堺福音教会 我喜屋光雄(2001年2月5日 召天)
1999年5月3日 JEC春期聖会
午後の部●メッセージ「これからの可能性に向かって」エペソ3:14-21

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン」エペソ3:20-21

 午前の「これまでの祝福」を踏まえて、どういう可能性に期待したらよいでしょうか。神様が私たちに与えようとされるのは、私たちの思いと願いを越えて豊かなものです。自ら制限しているような信仰であっても、自分に働く神の愛をどれ程理解しているかにかかわらず、自分を越えて神様を評価すること。これが信仰です。ですから、誰でもできることです。「私の信仰はこの程度」と思いがちです。しかし、プラスアルファを考えて「神様は私の信仰を越えて、して下さる。」と信じてよいのです。それに答えて下さる方が神様であり、それをおぼえながら偉大な神、豊かな神を信じていくことです。

 さて、パウロは徹底した「恵み主義者」でありまた、徹底した「教会主義者」でした。「可能性」はどこにあるのでしょうか。教会を通して神様がなさることにあります。エペソ書に「教会により、キリストにより、栄光が限りなく神にあるように。」とキリストと教会が並べられているばかりか、キリストの前に教会が来ています。神がいかに教会を高いものに位置付けられているかを教えられます。エペソ書が今回のメッセージの土台となっていますが、「すべての霊の祝福」が既に注がれているのが教会です。なぜなら教会こそ、神の永遠の計画、神の永遠の愛の結晶であるからです。
 黙示録の永遠の都エルサレムは教会のことを指しています。黄金の道、真珠の門が描かれています。もう一つ、教会こそ、新しいエルサレムであると預言されています。21:2,9,10は教会こそ神の永遠の住まい、また、お互いの住まいである、という印象を与えます。それほどに、神の御業の中心、目標が教会なのです。宣教をゆだねられたのも、宣教のゴールも教会です。

 エペソ4:11には、5つの職務があげられています。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師。何のためでしょうか。12節には、聖徒を奉仕のために整えて、教会を建て上げるためとあります。ゴールはキリストの高さであるといわれています。
 パウロは宣教の結果、必ず教会を組織したことを使徒の働きから読むことができます。(使徒14:23)教会ができない宣教は無駄です。そしてイエス様が最後に言われた、「大宣教命令」(マタイ28:18-20)は、「偉大な委託」なのです。Great CommissionであってGreat Commandmentではないのです。教会にその大きな事業をゆだねられたのです。供給源はイエス様です。「天に於いて地に於いて、一切の権威をもっている。この私が後ろ盾だから世界に出て行きなさい。」と主は言われます。
 宣教とは、あらゆる国民を弟子とすることです。それがこの委任の中心点です。そのうえで「わたしが語ったことを教えなさい。」と言われました。
 働き人たちに、イエス様がなんとなくただよって、いつも一緒にいるというのではなくて、つくられた教会を通し、体を通し、共にいます。教会が造られ、存在するところにあなた方と共に、具体的に存在します。教会がなければ、イエス様もある意味で存在しないことになります。
 それほど大切なものが教会です。宣教の中心は教会なのです。パウロは教会を生み出すために伝道し、生み出した人たちを教えて訓練しました。

 パウロは御言葉をもって、昼も夜も人々を訓練しました。Ⅰコリント15章初めの方で「私が宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」とあります。福音の内容とは、キリストの十字架の「死」「葬り」「復活」「携挙」です。この事を知って、生活の中に当てはめ、生活すること。福音によって生活すること。彼は広く言ったのではなく、一番大事なことを、くり返しくり返し、コリントの教会の人たちに教えました。
 彼の教えのスタイルは、他の教会でも同じでした。彼は、救われた人たちを養って、そして、成長した役に立つ、大人の教会になるようにつとめました。教会として機能することがどんなに大切なことであるか、パウロの宣教のあり方によって教えられます。そして、時には生み出した教会のために苦しみました。
 ガラテヤ4:19には、福音の真髄からはずれていった教会のために「産みの苦しみ」をしたことが書かれています。教会のため、イエス様は十字架にかかられました。ヨハネ16:21には「人が子を産むときには苦しむが、生まれてしまったならば喜びに変わる。」という内容の言葉あります。
 出産には苦しみが伴います。しかし、その結果として一つの生命(教会)が誕生します。ヘブル2:10には「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」とあります。十字架は、教会の産みの苦しみそのものです。

 詩篇2:7「あなたはわたしの子。今日わたしがあなたを生んだ。」
 これはクリスマスの預言ではなく復活の預言です。ローマ書やヘブル書によれば、復活において十字架の御業は完成しました。イエス様が初穂として死人の中からよみがえったその時に、新しいイエス様ご自身がお生まれになったと同時に、もう一つの生命が誕生しました。
 これまで主は、神のひとり子としてのタイトルでした。長子の立場で復活に於いて、新しい神の子となられました。長子ということは、弟妹がいるということです。それは教会のことです。
 ヨハネ20:7でイエス様は「あなた方の父、わたしの父、わたしの兄弟」と、弟子達を初めて兄弟と呼ばれました。イエス様はこの教会のため、きよく傷のない完全な一つの人格を作り上げるため、十字架で命を捨てられたのです。その教会に御霊が注がれました。(エペソ5:25-27)
 使徒2:33によれば、このキリストを神は引き上げ、神の右に座らせて下さいました。そして今、見聞きする聖霊を注がれた、とあります。

 復活して天に上げられたことは、十字架の御業の完成です。イエス様の栄光は、十字架の御業の完成のあかしです。「よくやった。あなたのしたことは完璧です」という神の認証です。キリストの御業は完全な御業であったため、御霊が教会に注がれたのです。そして、個人的に聖霊の体験を受けるのです。

 クリスチャンというのは、教会に連なってその影響でクリスチャンであるのではありません。一人一人がイエス様を信じて確かな個人的体験を持ち、それを持ち寄って教会を形成しています。しかし、教会がなければ個人の信仰も成り立ちません。体の中の細胞の相互関係と同じです。細胞運動、セル活動はそれと関係があります。他の細胞とつながっていなければ、その一つの細胞には何の意味もありません。けれども、その一つの細胞は独立した一つの生命体です。
 同じように、私たち一人一人はイエス様を信じて、御霊によって新しく生まれ変わるという体験をします。そして同じ体験をしたクリスチャンと結ばれることによって、信じる者の共同体を形成していくのです。
 それが「教会」なのです。神は、キリストを通して生み出してくださった教会に、御霊を委ねられました。そして、地上に於いて教会という住まいを与えられた御霊は、教会に連なる、一人一人に個人的体験をもって臨まれるのです。

 聖霊の働かれる基本的な3つの働きがあります。
①新生体験をもたらす。
 神の国を見る。神を見る。神の国の主人公である神様がわかる。瞬間的に「アバ父よ」と呼ぶ霊が、私たちの霊とつながって神様に対する親しみの思いが与えられる。瞬間的か、やがてか、長い時間かけてか、それぞれだが神様に対する親しみが生まれる。もし何年経ってもこれがないとしたら、クリスチャンではないのです。そうすると、クリスチャンであることは大変辛いこととなります。御霊はまず私達に神の子である、クリスチャンであるという自覚を与えます。この神の子であるという自覚が自然に与えられるのです。がんばって「クリスチャン」だと思い込んでいるのではないのです。本能みたいなものがまず与えられて確信を持ちます。この確信を与えられることによって、何年も変わらずクリスチャン生活を続ける事ができるのです。クリスチャンであり続けるのは、御霊によるのです。まず基本的な新生における働きを御霊はされます。
②聖霊のバプテスマ
 これは聖霊の見える現れです(使徒2:1-4)。
③聖化(ローマ8:1-2)
 キリストイエスにある者は罪に定められない。「死」「葬り」「復活」そのプロセスを通して、古き人と罪の原理から切り離された。罪の原理の感覚はある。しかし原理的には切り離されている。関係ない者とされている。だから神は、その罪のため、あなた方を責めない、罰しない。無関係な者として、キリストに結ばれた者として、あなたがたをを扱われる。この真理を通して、神の御霊は働いて、罪と死の原理から私たちを解放します(ローマ8:1-2)。そして、解放された一人一人をずっと成長のために導かれます(ローマ8:4-16)。

 ローマ8章全体は「御霊」について語っています。ローマ7章は「わたし」が出てきます。「わたし」の努力が邪魔なのです。神の御霊はすべてをして下さいます。即ち、私をキリストの命に結び合わせて命をいよいよ強め、深めていく働きを御霊がされる。このプロセスを生きていくことが聖めの生活、ノーマルなクリスチャンの生活です。
 このようにまず御霊は教会に注がれました。イエス様は弟子達に対して「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土および地の果てにまで、わたしの証人となります。」といわれました(使徒1:8)。
 聖霊の力を受けるということを一人一人個人的に考えるならば、ある偉大な人は聖霊を受けてから偉大な器になったということを聞きます。D.L.ムーディー(100何年前の今で言うビリーグラハムのような人)は、突然聖霊の器になったそうです。個人が偉大な器になるということについては、他にもいろいろな人がいます。だから、誰でも偉大な器になると期待してよいのですが、実際はそうではなく、経験上もそうでないと思えます。それでも尚「今そうでなくても、いずれ偉大になる。」そう思っていよいよ聖霊に満たされて祈っていくクリスチャン、そうした教えが多いようです。現実は、聖霊を受けたが、実感がありません。聖書は現実を無視して理解できません。聖書か、経験か。双方にギャップがあれば、どっちかが間違っているのです。聖書は神のことばだから、間違いはありません。しかし、現実と合わない。多くは「私の勘違い」聖書のことばの取り違いです。今のことば、「聖霊が臨むとき力を受ける。」もそうです。個人的にある人はそうなるが、ある人はそうならない。これが現実です。
 聖霊を受けたが、成長しない人、よけい変なクリスチャンになる人もいます。では御言葉の意味はどこにあるのでしょうか。個人ではなく、教会に対して、集団に対して言われた言葉と考えれば理解できるのではないでしょうか。「聖霊があなたがたに」その教会のあり方によって、力にもなるし、どうでもいいような教会にもなります。聖霊が下ると教会はどうなるのでしょうか。」

 〈聖霊のバプテスマに関する見解〉
 第一のターゲットは「教会」であり、個人ではありません。もちろん個人的な経験ですが、それで終わりではなく、互いにつながりがなければあまり意味がありません。それぞれが受けた経験は、同じ経験をした人たちと結びあっていかなければなりません。聖霊の賜物の第一の目的は、教会を造ることです。そして一致をつくります。そのような教会が存在すると力ですし、魅力です。周囲に影響を及ぼす、強力な磁石のような力があり、人々を引きつけます。そして、教会がそういうかたちで動いていくと宣教される人々が救われて、満たされ、成長していきます。地の果てまで広がっていきます。
 使徒行伝における聖霊のバプテスマは、いずれも個人としてよりも集団としての体験です(使徒2:1-4)。異邦人コルネリオの聖霊のバプテスマを受けた記事は、彼とその家族です(使徒10:44-46)。エペソの信者のところは、12人が聖霊を受けました。ヨハネのバプテスマから、イエスの名によるバプテスマへ。パウロが12人に手を置いて祈ると異言で祈り始め、偉大なエペソ教会の始まりとなりました(使徒19:1-2)。中心の人々(集団)に御霊が注がれ、集団から、個人へとつながっていくのです。教会を通して個人に影響が及ぶのですから、教会につながることは大事です。
 聖書のどこを見ても、一匹狼を用いるとは言っていません。神の理想は、平凡な人であるけれども、一致を通して非凡な力となって、それが大きなあかし人の役目を果たすことです。
 そういうことがなかなか起こらないので非常手段として、ビリーグラハム、ラインハルトボンケのような器が起こされるのです。この事はノーマルなことではなく、アブノーマルなことです。本来は、教会がそうなるべきです。神の理想は、平凡な者達の集まりではあるけれども、そこに御霊の恵みを受けて共通の体験と感性で結ばれて進んでいくときに教会という共同体を用いることです。
 私達が努力して一致することはできません。だから「教会は一致しなさい。一致した教会を創りましょう」と言っても、保証がなければ実現しないのです。けれども、それをするために御霊が注がれ、既に一致そのものが与えられました。それぞれがつながって、この方のレベルで物事を考えていくところに、自然に一致が創られていく。ここに大きな希望があるのです。この御霊は、一致を創るために与えられて、同時に、個人に満たすというかたちで臨んで下さるのです。

 イエス様が「渇いている者はわたしのところに来なさい。わたしを信じる者はその腹から生ける水が川となって流れ出る」と言われた時、その次のことばで「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったのである。」という注釈がついています。
 イエス様は天に上げられ、栄光を受けられました。十字架のプロセスを通して、私たちの受ける祝福のすべてを与えて下さったのです。信じる個人にもその事によって、聖霊によって与えられた新しい命があふれ、川となってあふれるという経験をするのです。
 新生を泉にたとえるなら、聖霊のバプテスマは川にたとえることができる。泉としてとどまるのみならず、そこにある泉がチャンネルをもって外に表現していく。聖霊のバプテスマは、私という人間性を越えて働き、お互い結び合うことで一致がつくられます。その一致から一人一人の霊の賜物が開発されていくのです。

 エペソの4章からそんなことが教えられます。
エペソ4:3「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
 御霊は一致の方。この一致によって、一致しなさい。がんばるのではなく、がんばらなくても御霊は「一致」なのです。この方に素直になれば、この御霊によって皆一致することができるのです。御霊というクッションを通して、御霊という接点を通して、私たちは経験を越え、男女の差を超え、背景の違いを越え、性格、好みを越え、霊的に一致することができるのです。そのところから、同時にキリストは十字架を通して教会に賜物を与えられました。そして教会を通して一人一人に霊の賜物が与えられたのです。
 エペソ4:7「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りにしたがって、恵みを与えられました。」
 「恵み」はカリスマ(賜物)のことです。キリストは本来、人間のものであった能力をサタンの手から奪い返しました。
 エペソ4:8「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
 まず、教会を回復されました。教会で賜物が明確になり、分かち合われていくためには、それぞれ、いくつか「柱」、基準のようなものが与えられ、それに従ってそれぞれが自然に奉仕に携わっていく。そうした自然の流れの中で、それぞれの賜物と言いますか、持ち場、立場と言うものがはっきりとわかってくるのです。
 「柱」というのは11節です。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」
 目的は12節です。「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」「整える」とは「整骨」の意味です。多くの教会は、骨はそろっているが、あちこち骨がはずれている状態です。部品はそろっているけど、互いにつながっていない。これが多くの教会の現状ではないでしょうか。これがちゃんと整えられるためには、それぞれの人が、どう動いて、どの立場で、どの関係で動いたらいいかという基準が必要なわけです。その基準として、この11節のことが言われています。これはまた、イエス様ご自身の働きの特徴です。

 イエス様は偉大な使徒であり、偉大な預言者であり、偉大な伝道者であり、偉大な牧師また教師であられました。まずイエス様は、命を私たちに下さいました。キリストの満ち満ちた命に教会はつながっています。同時に教会は、キリストがなさったその業につながっています。イエス様がされたその能力を教会は受け継ぐことになります(ヨハネ14:12)。
 ある人は、「現在の使徒は、将来において再び回復する。」と言いました。そういう人達が何人かおり、彼らは超教派的に働きます。ピーター・ワーグナー師によれば、「5000人以上の教会の牧師は使徒」だそうです。そうすると、チョー・ヨンギ先生は、使徒の中の使徒でしょう。70万人のメンバーの牧師ですから。一教会の牧師であるだけでなく、それ以上に周りに影響を及ぼすところの使徒的な働きをしています。そういう解釈をする人もいますが、お互いこの小さな教会で、偉大な人が出て来るのを待っていたら、いつになるかわかりません。
 JECの中に、使徒、預言者を招いて、全体の奉仕をしてもらうとしても、そう簡単に見つかりません。JECの中の人で、使徒、預言者に召された人に、教会を越えて働いてもらうにしてもむずかしい事で、こういう人がいつ現れるか、現れたとき、それぞれの聖徒の働きがはっきりしますというのであれば、いつまで待ったらいいのでしょうか。
 今このことを当てはめることができるとすれば、1人の使徒と考えるのでなくて、一つの理念、或いは、宣教の機能と考えれば、どの教会でもこれを当てはめられます。

 堺福音教会は、とりあえず自分の教会には、宣教理念としてとらえています。無理に5つの理念を創るのではなく、これまで導かれてきた宣教について、強調して来たことを具体的に理念として掲げ、その理念を中心に、それぞれの信徒達が関わっていくというふうに動いています。完全にきちっとなっているわけではありません。しかし目標は、はっきりしています。何となく動くのではなく、どういう目的で関わっていくか、骨組みがはっきりすると教会の中でそれぞれが、どういう働きに、どんな奉仕に、何をしたらいいかというのがわかってくるのです。
 堺福音教会の3つの理念。
①牧会宣教:教会中心の伝道であり、宣教である。範囲が非常に広い。
②海外宣教:世界宣教。国内であれ、海外であれ、超教派であれ、与える性格をもったところの宣教。
③拡大宣教:正しい名称かわからないが、英語では、Church Planting。教会を植える。種教会を植える。生長する種を埋めていく。

 宣教のあり方は、ただ行って福音をばらまくのではなく、種を受けて、信仰に入った人たちが、教会をつくり、機能していくことです。教会として成長していくと、他の子供達を生み出していきます。これが聖書に見る宣教の標準的なあり方です。JEC全体で開拓を始めるのもお互いの励みになり大切ですが、それだけでは足りません。もっと身近なのは、教会が教会を生みだすことです。いくつかの教会は、そういう傾向できました。堺は、これまで8つの教会を生み出し、一つは、独立して親をもしのぐ勢いで伸びています。子供の段階で7つ。沖縄チャペルが一番新しい。
 いろんな働きの分野を明確にすると、それぞれが自分にあったところに集まります。直接に大きな宣教に関わる人と共に、その人を助ける人も必要です。働きの場が、明確になっていくと、職場が広がり、働く人たちが喜んでそれに従事することができます。その結果、4:12にあるように、聖徒が持ち場、立場に整理され、キリストの体を建て上げていくのです。そして、ついにキリストの満ち満ちた高さにまで成長していくのです。
 教会がつくられ、成長していくということが、宣教の重要な問題ということを学びます。「わたしたちの願うところ、思うところを遙かに越えてして下さる神様の働き」というのは教会を通しての働きです。個人には限界があります。しかし、教会が整っていくとき、神様に愛され、選ばれ、考えている以上に尊い偉大な存在であることに気づきます。

 聖書は教会を、キリストと同じ立場に見ています。
 教会が偉大な理由は、キリストがすべての主権の頂点に立っておられるお方だということです。この方に結ばれ、この方の資格と、力、内容を受けている。これが教会の偉大さなのです。自分をそう評価できるでしょうか(エペソ1:20-23)。
 「イエス様は偉い。でも私は偉くない。イエス様は偉い。でも教会は大したことない。」そんな思いが、私たちの中にあるのではないでしょうか。見たところ人数も少ない。平々凡々の人ばかりで、偉大な人は集まっていない。
 でも、この人達に御霊が注がれて、そして、御霊を通して神様が愛して、その賜物を豊かに供給しようとしていらっしゃるのです。私の想像以上に、わたしがクリスチャンであるために、主は私達を愛して下さったのです。同時に、クリスチャンの共同体である教会を、どれだけ愛していらっしゃることか。ご自分の御子をさえ惜しまずにささげて下さったほどに、私達が感じている以上に、教会は偉大な存在です。イエス様は偉い。教会も偉い。私も偉い。なぜなら、この方に直結しているから。この方と一体であるから。積極的にお互い、教会である私を、自分たちを評価しましょう。この積極的評価と信仰が足りないため、教会はいつまでも、足りない信仰のとおりになっているのではないでしょうか。「あなたの信仰のとおりになるように」とあります。

 こうした奉仕の理念を中心に、1人1人が生かされるように。一人一人が信じているけれど、どこから本格的に自分ではっきりとわかるかたちで、教会に関わっていくのか。そのスタートは献身です。ローマ12:1ではこのように言っています。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」そして、これが礼拝だというのです。
 旧約の礼拝の型を言っています。神殿や幕屋で全焼のいけにえとしてささげられた動物は100%神のものです。全焼のいけにえをささげることを、礼拝者は神を礼拝すると言うことを表しています。神様は、このいけにえを通して、その人は完全にわたしのものであると言われます。
 信者には、2種類の人がいるようです。
①信じて、自分の都合で信じる。死ぬまで自分中心で信じる。そういう人が多い。
②神様中心に生きる。早い段階で、神中心の信仰に移ることが望ましい。
 またそのように勧めています。神様の側から見れば、私たちは既に、イエス様の尊い代価、血潮を流して買い取って下さったから、権利として否応なく、私たちは神のものなのです。
 「自分勝手にしたい。救われてこれだけで結構。後は、わたしのやりたいようにさせて下さい。」神様はそれをお許しになります。しかし本当は、そんな権利は無いのです。なぜなら血によって買い取られたものだからです。
 パウロは、Ⅱコリント5:15で「キリストが命を捨てられたのは、その命をもって、買い戻して下さった私たちが、もはや自分のために生きるのではなく、買い戻して下さった方の為に生きるためである。」という風に言っています。
 にもかかわらず、神様は「さあ、信じたあなた方はどういう信じ方をしますか。自分中心に御利益的に信じて生きますか。わたしはあなたを救ったが、続けてあなたの生涯を預けて、わたしの考え通りに生きるクリスチャンにしますか、自分の計画どおりに生きるところのクリスチャンにしますか。どっちにしますか。」
 イエス様も招いていらっしゃいます。「重荷を負って苦労してるものはわたしの元に来なさい。あなた方を休ませてあげます。」(マタイ11:28)。これは救われた人の状態を言います。「イエス様信じて、あの悩み苦しみから解放されました。あの癖この癖、悪い癖からも解放されました。平安です。重荷がありません。ハレルヤです。」
 次に、イエス様は招いておられます。「くびきを負ってわたしと共にある生活をしませんか。わたしは柔和で、心の低いものです。くびきを負ってわたしに学ぶ生活を始めませんか。」
 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎ来ます。」(マタイ11:29)。
 一見くびきは不自由に見えます。誰も自分の意志を他人に束縛されたくはありません。「金持ちにしてやる。しかし、一から十まで、私の言うことを聞け。」というのより「貧乏でもいい。自分の好きなように生きたい。」これが人間の本性でしょう。

 救われて、自分の好きなように生きるのも良いでしょう。しかし、もう一つ意志、神様の意志と一つとなって生活されませんか。あの重荷この重荷が、無くなったという表面的なことだけでなく、いつまでも魂の深いところに平安がある生活はどうでしょうか。
 一番大きな重荷とは何でしょうか。それは私自身です。好きなように生きるというのは、自由に見えます。しかし何をしていいいかわからないものです。何でもできる全能の力があればいいけれど、そんなものはありません。明日のこともわからないのです。業績の良い会社に入ったとたんに、経営が悪化して倒産する。よくあることです。今の時代は特にそうです。自分自身を信じられない。「大丈夫」と思っていたことが信じられない。そのような、頼りない私を頼って、信じて、確信もって将来を生きていくことができるのでしょうか。そのように、強がっているけど、弱いものです。深いところに恐れがあります。基準も目標もなく、生き甲斐もって生きられると思っていない。神様はよくご存じです。
 主はこのように語っておられます。
 「わたしのペースに合わせませんか。わたしはひどいものではありません。あなたがあなたを愛している以上に、わたしはあなたを愛しています。あなたがあなた自身を理解している以上に、わたしはあなたを理解しています。そのため、あなたのために、わたしは命を捨てました。あなたの生涯をわたしに委ねませんか。自分中心ではなく、御心中心になる決心をしませんか。御心にあなたの軸足を置いたところの人生、そして、クリスチャン生活をしたいと思いませんか。」
 以前、朝早く散歩していて犬を見かけました。とぼとぼと、やせこけて歩いていました。「あの犬こそ自由だ。」と思いました。飼い主にも、誰にも縄をつけられない。しかし、何とも寂しい、わびしい生活ではないでしょうか。
 私達は、何をしていいかわからないのです。自由が負担です。束縛がない自由は、本当の自由ではないのです。英語で“Freedom”の“dom”は「囲い」の意味です。囲いがはっきりして、自由が自由になります。囲いのない自由は不自由です。

 「わたしにあなたの生涯を委ねませんか。あなたは救われて神の子となり、生きた聖なるものとされました。現在、過去、未来もすべて、あなたに付随するものすべてを、わたし自身に委ねることをしませんか。」そうすれば、「魂に安息が与えられます」とイエス様はおっしゃっています。ローマ書12:1においてパウロは、これが、「霊的な礼拝です。」といっています。ある意味で、神の御心に献身するということは、神の言葉に献身するということです。というのは、神の御心は、神の言葉にあらわされているからです。

 ローマ書12:2では「この世のライフスタイルにはまってはいけません。べつのライフスタイルにはまりなさい。」と言われています。もう一つのライフスタイルとは、「神のことばを基準にして生活する、御言葉のライフスタイル。」です。
 そうしていくと、神の御心は何か、自分の充実した生き方は何かが、わかってきます。この線上で、自分が何者かが教えられます。それが、ロマ12:3です。
 どのような生き方をしてきましたか。どんな友達がいましたか。どういう人間関係ですか。どういう家庭に育ちましたか。どんな学校で学びましたか。どんな会社に勤めましたか。どういう教会に育ちましたか。いろんなものがあります。歴史を否定することはできません。
 通ってきた人生があまりにもいやなので、思い出したくないので書き替えたい。そして、理想的イメージを描いて当てはめてみたいと思っても、それは偽りです。事実ではありません。問題の解決にはなりません。神は、私たちの生い立ちをご存知です。どう育ち、どういう性格、傾向をもっているかご存知です。そこには、プラスもあれば、マイナスもあります。

 「神様。あなたは、生い立ちから私をご存じです。勇気を持って認めます。子供時代は、誰にも言えず寂しく、孤独でした。でもあなたはご存じです。今日まで引きずって来たマイナス部分を認めたくないです。でもあなたはご存じですから、今認めます。表面はたくましく、力強く、明るく振る舞ってきましたが、心の中にいつも不安がありました。そして自分は弱く、深いところに劣等感がありました。こういう私です。これをあなたが救ってくれました。そしてこういう自分を委ねていきます。」と祈ることです。
 そしてどのように生かされるか。 まず、あなたが自分に正直になるとき、神様は、マイナスに働いたあなたの傾向を、プラスに働かせます。自分のあり方、自分の範囲を正直に認め、過小も過大もしないで知れる範囲でありのままを神様に認めていくと、そこに御霊が働かれてわたしの霊の賜物となります。神様が資質的な賜物として与えて下さった生まれつきの特徴が、美しいかたちで導かれます。出発点は「献身」です。「主よ。わたしの生涯をあなたの御心に従っていく決心をします。」と祈りましょう。
 その延長で、次のようなことがおこります。

  • 御言葉によって生きること
  • 賜物が開かれること
  • 賜物が教会に発揮されるという生き方
  • 教会において発揮された自分の才能が、社会において用いられる

 この順序がローマ12-14章に書かれています。教会で成長していくとき、決して教会だけに固まる、ゲットーに固まる狭い人間になるのではなく、教会という場を通してわたしが開かれたとき、社会に有意義な人間に成長していくのです。
 それを通して、私は教会に確かにつながっているという、教会の場において私は生かされているという確信、自覚を見ることができるのです。このように教会はわたしの夢を解放するチャンネルであることを知ることです。
 私達の持ち前の才能が神の御霊によって色付けされ、麗しくかたちつくられ、用いられるために御霊は教会に注がれました。神の御心中心の生活をしたいと願う一人一人に、御霊が賜物を与えて下さるのです。

 「末の時代に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」
 具体的には教会に注がれます。ヨエル書には「息子、娘は預言する。」とありますが、旧約時代にはこれらの人は預言する資格がなかった人達です。
 「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」
 御霊が、私達お互いの夢、幻を解放するため注がれました。キリストは、教会が明らかにされ、教会において私が生かされるように導いて下さいます。そして御霊は私達を生かし、教会を生かし、力強い神の子として、神の栄光に彩られるにふさわしいかたちで私を導いて下さいます。教会を通して神様は、私たちの夢をその想像を超えた豊さを実現しようとしておられます。だから自分の所属している教会はつまらないと思わず視点を変えて、イエス様とつながっているのだから同じように偉大である。私は素晴らしい、あなたも素晴らしい、私の教会は素晴らしい、と考えましょう。
 この素晴らしい教会を中心に生活、人生を整えていきましょう。自分や教会に低いイージを持っている人は、高いイメージを持って信仰によって進もうではありませんか。JECの諸教会を通して、神様が力強く働いて下さると信じます。

信仰生活の「根の部分」について 

関西聖書学院・前学院長 高橋昭市

 使徒パウロは信仰生活を競技をする事にたとえている。そして競技をするからには、賞を得るようにと勧めている。よいコーチから、賞を得るためのいろいろな教えを平素から聞くことができる競技者は幸運な者であり、しかもそれら平素の教えが、握りしめる形にまで要約され、呼吸の間、無意識の層にまで根づいているなら、その人は何と幸いな競技者であろう。
 主イエスは信仰生活を、よい羊飼いに導かれる羊の生活にたとえておられる。 

 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。(ヨハネ10:9)
 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(ヨハネ10:4)

 信仰生活の二要素は門と道である。門は静、道は動、とそれぞれの特性は対称的である。門は不動、不変であり、それに続く囲いの特徴、群れの特徴を明示している。しかも主御自身が「わたしは門です」と言われたことから、門には単なる表象であることを越えて、遥かに深い内容が秘められていることがわかる。
 門はまた、羊が「安らかに出入り」すると言われていることから、最初の入門経験のあとも、道を歩く経験、門通過の経験が幾たびも繰り返されること、そうした羊の生活の中で門がいつも中心的役割を果たすこと、などが自然に教えられる。
 信仰生活の2要素は門と道であるが、それぞれの生活の最も重要な「根の部分」を取り上げてみたい。

1、信仰生活の「門」における最も重要な「根の部分」

    御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。(ヨハネ3:36)
    御子を信じる者はさばかれない。(ヨハネ3:18)
   
 門の正面に、門に向かって立つとき、これらの代表的聖言が見える。いや、聞こえる。
 生ける神がそう言っておられるのである。「信じる者は」、「信じる者は」といずれも現在形で言われていることに注目したい。そして、信じる者に約束されているすばらしい事柄に、しっかりと目をとめたい。すなわち、永遠のいのちが与えられ、「さばかれない」との約束が与えられているのである。
 永遠の神は、たしかに「今」生きておられる神であり、昔から聖徒たちが繰り返し「主は生きておられる」と告白してきたお方である。すべてを概念化して思考の世界に写し変えようとする傾向が強い現代において、自分が生きている「今」について、再検討、再確認する必要は大きい。この「今」あるいは「現在の時」を解明するものとして、パスカルのパンセの中に重要な一文がある。松浪信三郎訳を次に引用したい。「われわれはいつも現在の時にいたためしがない。来るのがとても待ちどおしくて、その歩みを早めさせようとするかのように、未来を待ちこがれているか、さもなければ、あまり速やかに過ぎ去るので、その歩みをひきとどめておこうとするかのように、過去を呼び返している。浅はかにも、われわれは、われわれのものでない時のなかにさまよい、われわれの所有に属する唯一の時を考えない。また、空しくも、われわれは、もはや存在しない時のことを思い、現存する唯一の時を無反省に過ごしてしまう。というのも、現在は、多くの場合われわれを苦しめるからである。・・・・・・」
 「現在の時(今の時)」の問題点を明らかにするために、次のような例話を用いたい。
 偉大な王がここに立っている。絶大な権力を持ち、しかも正しくきよく愛に満ちた王が、「今という時」こちらを向いて立っている。王の顔は輝き、両眼から太陽のような光が放たれている。王は大声をあげて、「み子を信じる者は永遠のいのちを持つ。み子を信じる者はさばかれない。」と言った。
 このような王の言葉にふさわしい受け取り方はどうあるべきだろうか。
王の前に立ち、王に顔を向け、「はい」と答えて王の言葉をそのまま受け取ることである。「今の時」にそうすべきである。誰にでもできる簡単なことではないか。
 しかしながら、観念的な習性の中に生きる者にとっては、簡単なことではなくなってしまう。過去、現在、未来は紙上の線の三点であるにすぎず、契約とは捺印した紙を取りかわすことであって、都合によっては変更可能なものと理解している。このような者がかりに王の前に立ったとしても、せっかくの王の言葉は、夢見る者の夢の中の、すぐ忘れ去られる言葉ほどの有効性しかない言葉になるだけである。      
 「夢見る者」とは通常の人のことであるが、この人が王の前に立つ、すなわち、「現在の時(今)」に立つ可能性はないのであろうか。ないことはない。四囲の壁に出口がなく、追いつめられ、必死の思いで上を見あげるとき、幼子のような心のときなどがまず列挙される。しかし、そのようなときを含み、そのようなときを越えて、不思議にも王の言葉すなわち神の言葉が神の言葉として聞こえてくるときがあるのである。人の計らいを越えた不思議というほかはない。これを恵みという。
 思えばありがたい御言葉ではないか。み子を信じる者は永遠のいのちを持ち、さばかれることはない、と言われるのである。誰にでも、信じる者に無代価で与えられる賜物に、広大無辺な神の御慈愛が現れている。(しかし、神は人に侮られるようなおかたではない。恵みを軽んずる者は神の峻厳をさけることができない。)
 ともあれ、生ける神の、「今の時」の宣言は不変であり、この御言葉を自分のものとして受け取った者は、不動の根を持った存在となるのである。もし、いつも門の前に立つ生き方を続けることができたら、それは最高の信仰生活ということになろう。しかし、たとえ「いつも」でなくても、1度門を通った人は、なんべんでも門に帰ることができ、そのつど生ける神の御言葉を自分のものとして確認でき、いわば、不抜の根を持つ木となったのである。

2、信仰生活の「道」における最も重要な「根の部分」

 信仰生活の「門」において、永遠のいのちと「さばかれない」という約束を与えられ、次は「道」すなわち歩みが始まるわけである。
 「門」においては、語られている御言葉をただ信じるという信仰で、「さばかれない」という約束、あるいは、「全ての罪が赦された」という御言葉を受け取った。(十字架上のみ子の代価を保証として・・・。)
 神の御業を見るだけで、人の営為が介入しないので、「全ての罪が赦された」とか、神の御業の完全性を表す宣言、約束が鏡像の反射のように「アーメン」と唱えて受け取れたのである。しかし「道」を歩む場合は、実際に心を働かせ体を用いるわけであるから、
「門」の場合とは情況が違ってくる。人の営為が介入してくるように見える。「門」の場合は信仰だけでよかったが、「道」の場合は信仰に努力が加えられなければならないのであろうか。これは微妙な事柄であると同時に聖徒たちにとって極めて重要な問題でもある。
 「門」において、「ただ信仰」と謳歌しても、「道」において「信仰プラス努力」であるとするなら、真の福音、解放の喜びはいったいどこにあるのだろうか。
 「道」における歩みの問題を明らかにするために、次のような例話を用いたい。
 ある人が安全な岸壁から手を離し、遠く目がけて泳ぎだした。次第に疲れてくるが、とにかく自力で泳いで行かねばならない。どうしても目的地まで行かねばならないのである。
 ところがそこへ一そうの小舟がやって来て、「つかまりなさい」という船頭の言葉が聞こえた。泳ぎ手が小舟の助けにあずかるためには、ただ船べりにつかまりさえしたらよい。考えることでも、議論したりすることでもなく、ただつかまりさえしたらよいのである。
 前掲ヨハネ十章において、羊は羊飼いの声を聞き分けてついていくことが記されていた。救いの門を通ったあと、羊が救いの道を歩み続けるために必要なことは、よい羊飼いにただついていくだけでよいのである。言いかえるならば、道行きには、「ついていく」という信仰が肝要であり、「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つ」と主イエスが言われたことを想起させられる。「ついていく」という動作を伴った信仰自体、考えることでもなく、論ずることでもなく、単純な信仰である。この単純な信仰は、複雑多岐にわたる、道行きにおいて、しっかりと守り通すべき宝ではないか。
 主イエスは「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と言われたが、この宝を守り通すためには、蛇のようなさとさも必要である。単純な信仰を紛れさせる要因がわなのようにもつれているが、それらを列挙してみると、良い羊飼いの姿が見えず、声をたよりにしなければならないこと、聞こえる声はいろいろあり、人々の声、悪い羊飼いの声、自分の心の中から聞こえてくる声などがあること、特に自分の体の奥底から、魂の中枢部を支配している、いわゆる自我の力は強大であり、隠れた王であって、この王の姿が光にさらされない限り、結局は我意を至上に置いてしまうこと、この自我の力から解放するためにイエス・キリストが十字架にかかられ、単純に御霊によって生きるために復活されたこと、などである。(ここに至るまでの、「道行きの単純な信仰」とは、「御霊によって生きる」ことの説明である。)

3、「門」と「道」を超越した「根の部分」
 信仰生活は「門」から「道へ」、「道」から「門」へと繰り返し、そのいずれの場合も、単純な信仰によることを述べて来たが、おびただしい繰り返しのうちに、「門」と「道」に共通した、しかももっと深い「根の部分」に至り、その信仰も「単純な信仰」であることが、いくつかの聖句によって示されている。
 私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。(使徒2:25)

 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:18)

 ここに示されているのは、「主を見る」という単純な信仰である。少しでも視線をわきにそらすと、さまざまなものが見え、その一つに捕らわれると、そこに一つの領域が展開することになる。
 しかしながら、こんなにも複雑な、こんなにも多様な世界の中にあって、この集約された単純な信仰によって、保証された人生を、永遠に向けて生きうるということは、何とありがたいことではないか。
 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13、14)

隠されたる神

アラスカ・クリスチャン・チャーチ 大川 正已 師
(奈良福音教会・前牧師)

 ルターにおける「隠されたる神」と言う表現は、ルター神学における最もルター的な表現である。ルターは神を問題にする時、理性に現れないで、信仰に現れる神を考えるのである。キリストは十字架に死んだものであるが、同時に「復活した神」、理性、自然に隠されている神である。
 神は理性には隠されている。神は一般には理解されない。神の言葉に満足する信仰こそが、隠されたる神を知るために、求められねばならない。隠されたる神は、信仰の、最高の段階においてのみ、可能な対象として現われるのである。信仰こそがよく神の怒りの背後に神の愛を認め、両者の間に統一を認め得るのは、信仰のほかにないのである。       
 ルターと神秘主義における相違
 神秘主義は、超越的、不可思議な、不可認識的な神を言う事を強調する。エックハルトは「神は自分自身では、超実在的非有実在だ、被造物の理解に対しては無だ。」と言う。エックハルトは、神の性質が自らを啓示しえない、と説く。タウラーは「知られざる神は、非対象性の暗黒な不可接近性における、すべての啓示の彼岸に、君臨する神である」と説く。アレオパゴスのいわゆる知られざる神を隠されたる神にして説いている。
 ルターの「隠されたる神」は、人が感覚しうるもの、所有しうるもの、理解しうるものに、隠されているの意味である。それ故、信仰にのみ啓示される。
 1513年ー1515年の「詩篇講解」において、ルターは創造者なる神を隠されたる神として評価した。1515年ー1516年の「ロマ書講解」においては、救済者なる神を、隠されたる神として評価した。
 「神の業は成ったときですら、かならず隠されており、理解されずにおる。しかし、それはとりもなおさず、われわれの理解あるいは思いに矛盾する相貌のもとにのみ隠されているのである。」「神の業はそれがなるまでは知らない。いつもそうしたものである。」
「このように、われわれの命は死の下に隠されている。」「われわれの肯定をすべて否定せずには獲得または把握され得たまわぬ神、その神の中に信仰が場所を得るためである。」「われわれのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3・3) すなわち、人が感知し、所有し、理解することのできる、すべてに対する否定のうちに隠されているのである。」「神はその力を示すためにパウロを立たせたもうた。
 なぜなら、神はその選びたもうたものに、あらかじめ彼らの無力を示し、彼らの力をかくして全く無に返せしめ、そのことによって、彼らが自己本来の力を誇ることのないようにせずには、み力を彼らにあらわし得たまわぬからである。」以上の言葉はローマ書講解の言葉である。救済者なる神の知恵は、我々の知恵には全く隠された知恵であってそのわざも全く隠されているのである。ルターは、神における怒りと愛とをその全体において正しく解釈しようとした人で、愛を神の固有のわざと見、怒りを神の異なるわざと見た。神は固有のわざの愛を行なうために異なるわざを行い給う。怒る神の背後に、恐るべき神秘の背後に無限の愛の無限に祝福する者をとらえる事、ルター自身の言をもってすれば、神の「否定の下に、又否定の上に、深い隠された肯定」を聞く事こそ、一つの冒険であると見ている。
 ルターは隠されたる神を、信仰の対象とすると共に、愛の対象としている。隠されたる神は、ルターの神中心の神観を最もよく明らかにしたもので、恩寵や賜物のゆえにではなく、神そのもののために、神は愛されるべきで、隠されたる神を愛の対象として、考察してゆくとき、隠されたる神に関する難問が取り去られて行く事を明らかにした。
 隠されたる神の思想の根拠は、イザヤ45章15節「救いをほどこし給うイスラエルの神よ、まことに汝は隠れています神なり」である。怒りは、神が自らを隠すマスクであって、ラテン訳イザヤ書28章21節「そのわざは異なったものである。」を根拠にした思想である。愛の神が怒りのわざをなすなら、そのわざは異なるわざと言われる。隠れたる神は根本的には、異なるわざをなす神である。この神に対しては、信仰が求められる。神の異なるわざは、信ぜられるために隠されるのである。
 隠されたる神は、否定の神である。出エジプト33章17節ー23節によれば、モーセは神のうしろを見るが、神の顔を見ないのである。神はモーセの前を通り過ぎ給うたが、神のうしろだけをみたのである。
 隠されたる神は、我々の希望に反対な事を生ぜしめる神で、神のかくのごときわざは、悪しきわざとして見るべきではないので有る。ここに当然、神のわざに対して、信仰者と不信仰者の区別が現れる。一方に於いて、神は人間の運命を左右する絶大な権力者として描かれているとともに、他方に於いて、人間は信仰を有するときにのみ、神の隠されたわざを忍びうることが述べられている。不信仰者は、神の恵みに対しても悔い改めることを知らないが、義人は、神の怒りに対しても、それが彼のために、救いを造り出すことを理解しうるのである。神は傷つけることも、いやすことも、生かすことも、殺すことも自由な神である。
 ルターは隠されたる神に対して、信仰者と不信仰者とがいかに越え難き両岸におかれているかを述べている。不信仰者の最善のために贈られているものを、不信仰者は自己のために誤用するのである。神が我々を砕き、又我々を生かすとき、この隠されたる神が我々に経験される。一切の希望が消え去り、一切が希望や祈願に反対して現れるとき、いいあらわし難い嘆息が始まり、ここに聖霊の助けによって、神のわざを受け入れることが始まる。
 信仰は対立の仲裁である。殺す神と生かす神との間に立ちうるものは、信仰のほかにない。神の怒りと愛との間に立ちうるものは、信仰のほかにない。信仰がかく対立の仲裁でありうるのは、信仰が見えざるものと交渉しうるがゆえにほかならない。神は故意に、人間をして暗黒のうちに突き落とすこともある。しかしこれは、人間をして、ますます深い神観に進ましめるためにほかならない。ゆえに隠されたる神は外面からみると、まことに「否定の神」である。隠されたる神は、人間のうちにある一切を否定し、これを破壊しようとする。ルターはこの意味において、神を否定的本質と呼ぶのである。無条件的、絶対的な信仰の対象としての否定的本質としての神を説くのである。
 ルターにおける隠されたる神は、啓示において、神秘な神である。その神の意志の性質が知られることによって、隠されたる神はキリストにおける神と一致する。ルターは隠されたる神のわざが「霊的」であることと同一の意味に解しているが、又神が結局、不可解な意味において隠されると言うことは、信仰の段階に必要なことであるが、隠されたる神は、人を捨てる神でありながら、人から愛されることを求める神であることが明らかにされるのである。
 隠されたる神は、十字架の神学の中心である。それは間接的神認識である。
 隠されたる神は、啓示のために隠されておられる。「人間は、他に与えないために自分のものを隠し、神は、ご自分のものをあきらかに示すために隠したもう。ご自分を隠すことによって、神は啓示の障害、すなわち、高慢を除くよりほかのなにをもしたまわない。」

- 過去・現在・未来を眺望して - 「JECの神学的輪郭とその座標軸を模索する」

山崎チャペル(一宮基督教研究所) 安黒 務

<序>
 ずっと以前、フレッド・スンベリ師に「KBIの二十五周年の記念論文」をお願いしましたとき、「過去のことはもういい、未来のことを考えよう!」と言われたことを思い出します。今回JEC宣教50周年を機会に“JECのルーツとアイデンティティ”を過去・現在・未来というマクロ的な視野から模索し、ひとつの試案として“JECの神学的輪郭とその座標軸”を描きだしてみたいと思います。

<1>過去:JECのルーツについて
 まずJECのルーツについて、歴史的におおまかにさかのぼっていくことにしましょう。JECのマザー・ミッションは、「スウェーデン・オレブロ・ミッション(現在は三教派合同により“インターアクト”)」です。スウェーデン・オレブロ・ミッションは、「スウェーデン・バプテスト系諸教会」を基盤としています。スウェーデン・バプテスト教会のルーツは英国の宗教改革であります「ピューリタン運動」の流れにあります。ピューリタン運動は16世紀のルターやカルヴァンの「宗教改革の流れ」の中のひとつにあたります。宗教改革は、ある意味で「古代の正統教理」を継承する運動であります。そして古代の正統教理は、「初代教会の信仰」に根差しており、「イエス・キリストの死・葬り・復活の事実と使徒たちの証言」を基盤にしています。
 このような理解に立ち、私なりにもう少し詳しく記述していきますと、第一に「初代教会」との関連におきましては、「聖書における創造や福音を神話とか創作とみる立場」とは異なり、JECは使徒たちの信じていた通りの使徒的キリスト教を割り引きもせず、水増しもせず、忠実に継承し、それを熱烈にあかしする群れです。第二に「古代教会」との関連におきましては、「主要教理を軽視して異端に走る群れ」とは異なり、JECとはあらゆるところで(公同性)、常に(古代性)、すべてによって(一致同意)信じられてきた正統信仰の根幹を基本とする群れです。三位一体論やキリストの神人二性一人格論などがそれにあたります。第三に「中世を背景にした宗教改革」との関連におきましては、JECは「聖書のみ(が神の唯一のことば)」「信仰義認(キリストの贖いのみによる罪の赦し)」「(法王を中心とするピラミッド型の構造ではなく)聖徒の交わりとしての教会(万人祭司)」の三大原理を忠実に継承する宗教改革の子孫です。第四に「宗教改革における四つの流れ(ルター派、カルヴァン派、アナバプテスト派、英国のプロテスタント)」の関連におきましては、JECは英国のプロテスタント(ピューリタン運動)につながりをもつ流れです。実際にバプテストの信仰告白のひとつであります第二ロンドン告白は、「ピューリタン神学の華」といわれますウェストミンスター信仰告白のうち、教会論のみを会衆制に変えたものと言われています。第五に「アルミニウス主義対カルヴァン主義の論争」の関連におきましては、JECは神は常に神学よりも大きいし、聖書は私たちの組織的成文化よりもずっと豊かで大きいという理解の下に両者を包摂する立場をとる群れです。スウェーデン・バプテスト系の流れはカルヴァン主義者を主としつつ、アルミニウス主義者をも包摂していると聞きます。第六に「信条主義」の関連におきましては、JECは簡易信条主義の立場をとっていますが、信条は常に誤りのない聖書に従属することを認識しつつ、バプテストの信仰告白をはじめとし、ウエストミンスター信仰告白などの諸信条の価値を認め、それらからも学ぶ群れです。第七に「正統主義神学」との関連におきましては、JECは宗教改革の遺産の体系化であります17世紀のプロテスタント正統主義と近代の福音派の神学との連続性を認識する群れです。KBIで使用されてきましたヘンリー・シーセンの「組織神学」や現在使用されていますミラード・エリクソンの「キリスト教教理入門」もそれらを継承しているものです。第八に「敬虔主義運動」との関連におきましては、JECは正しい教理は正しい生活実践を伴わなければならないと考える敬虔主義運動の体質を有する群れです。「十字架のメッセージ」もその霊的遺産のひとつです。第九に「自由教会(フリー・チャーチ)運動」との関連におきましては、JECは教会と国家とが明確に分離した社会において独立と自治を有する「目的を同じくする自発的共同体」としての群れです。「明確に新生したもののみに、浸礼を授け、そのメンバーで教会形成をする」バプテストの流れはその典型です。第十に「リベラリズム(自由主義神学)と福音主義」との関連におきましては、JECは「聖書を誤りのある歴史的・宗教的一文書」としてみるリベラリズムに危機感を抱いて1846年に結成された「聖書を神によって霊感された誤りのないことば」としてみる福音主義同盟の9項目より成る福音主義信仰にたつ群れです。オレブロ・ミッションはスウェーデン福音同盟に所属しており、世界福音同盟の一員でもあります。JECは日本福音同盟に加盟していませんが、同じ立場に立っていることに疑いの余地はありません。そして第十一に「世界宣教運動」との関連におきましては、JECは「世界宣教運動を非聖書的な方向に向けてきたWCC(世界キリスト教協議会)」に対抗して開催されました1974年の「ローザンヌ世界伝道会議」が明らかにしました「ローザンヌ誓約」の聖書的な「福音的信仰と宣教観とライフ・スタイル」を信奉するところの群れです。オレブロ・ミッションは、1978年の総会で「ローザンヌ誓約」を宣教活動の基本方針として採択しました。JECも同様の福音理解と宣教観の流れの中にあるといってよいでしょう。以上、キリスト教史2000年の流れの中に歴史的ルーツとの連続性をもつJECについてみてまいりました。(参考文献:宇田進「福音主義キリスト教と福音派」、他)

<2>現在:JECのアイデンティティについて
 次に、JECのアイデンティティについてみてまいりましょう。まず明らかなことは、ルーツとアイデンティティを切り離すことはできないということです。すでに記述してきました内容において“JECのアイデンティティ”の九割方が決定づけられていると思います。ここ50年間のJECの中心的流れは、我喜屋師に代表される「十字架と聖霊」のメッセージといえると思います。ただそれらは新しい、あるいは奇異なものではなく、すでに継承されてきました聖書の啓示とキリスト教神学の歴史の“絶大な霊的な遺産”の一領域、特に救済論の中の「聖化論」と聖霊論の中の「聖霊の賜物論」の領域に聖霊がその時代状況の中で解き明かしの光を注がれた時代であったといってよいでしょう。
 このメッセージの神学的輪郭を二つに分けて描きたいと思います。(参考資料:「シカゴ・コール」、他)

①「十字架」のメッセージ
 十字架のメッセージは、JECの第一世代の日本人教職者に共通するものと聞いています。第一世代の先生方が「“きよめ(危機的聖化)“を強調する塩屋の神学校」で学ばれたことも関係があると思います。スウェーデン・バプテストの流れは基本的に「聖化を一生涯の漸進的過程」において捉える理解です。それらの両者の折衷的理解として有名なウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」においてメッセージの輪郭が明確にされてきたようです。ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」や「キリスト者の行程」は、ケズィック聖会におけるメッセージを資料源として芸術作品のように仕上げられたものであると言われています。「ケズィック」は英国のリゾート地の名前で、そこで毎年開催されている「ホーリネスを強調する」聖会の名前です。ただ、ケズック運動は組織とか教派ではなく、超教派の聖会であり、聖公会・バプテスト・長老派そして他の教派から多くの著名な説教者が奉仕しています。教理的には幅広い多様性があります。そしてこれらのメッセージの流れは、歴史的に「敬虔主義運動」に包括し位置づけることができると思います。(参考文献:ダナ・ロバーツ「ウォッチマン・ニーを理解する」、他)

②「聖霊」のメッセージ
 聖霊のメッセージとは、今世紀中期からの「聖霊カリスマ運動」からのものです。今世紀初頭からのペンテコステ運動は、スウェーデンにも波及し、スウェーデン・バプテスト同盟から分離した諸教会は、1937年にオレブロ・ミッションを設立しました。ですから、ペンテコステ的経験は宣教師の来日以前のオレブロ・ミッション諸教会にあったと思われます。また、ペンテコステ的経験が世界宣教へのエネルギーであったと思われます。日本福音教会における聖霊経験の広がりは、今世紀中期からのアメリカやカナダからの「聖霊カリスマのチーム」によってさかんなものとなっていきました。単なる経験のみではなく、聖霊と経験についてのバランスのとれた教えが特徴としてありました。聖公会のデニス・ベネットの「朝の九時」や「聖霊とあなた」はよく読まれました。オレブロ・ミッションもJECも、バプテスト的な背景とバランスのとれた伝統的教理を保ちつつ、ペンテコステ的経験にオープンであったという点において、「伝統的脈絡に立ちつつ、その神学的脈絡にそうかたちでペンテコステ的経験を理解し受容する」というカリスマ運動の特徴を明らかにしてきました。ただ聖霊運動は非常に多面的であり、簡潔に表現し位置づけることは困難です。いうなればすべての神学と実践の領域に関与しています。その神学的位置づけ等に関心のある方は、私のホームページにあります「JECアイデンティティ研究室」にある資料集をご覧ください。(参考文献:R.H.カルペッパー「カリスマ運動を考える」、他)

<3>未来:JEC神学の継承・深化・発展への輪郭
 ここでさらに次の50年を見渡してのJECの神学的輪郭のあり方を模索してみたいと思います。JECのあり方が、日本のキリスト教会の中において、ひとつの意味ある選択(オプション)として評価され、市民権を獲得しうるかたちに成熟していくためには、一体どのような神学的特質に特色づけられている必要があるのでしょうか。
 その第一は、真に聖書的、福音的であることです。“聖書的適格性”が絶えず自己吟味されていく必要があります。第二に、分派的、自己流であってはいけません。常に公教会的であることが大切です。あらゆるところで、常に、すべてによって信じられてきた“正統信仰の公同性”を反映するものでなければなりません。第三に、“現代的適応性”と四つに取り組むものでなければなりません。聖書の使信の高さ・深さ・広さを特定の文化言語と思惟様式において積極的に立証することを不可避の機能として担うことが必要です。オウム返しに語るのみではなく、新しく語らねばなりません。単に要約するのみでなく、新しく理解されなければならないのです。第四に、“自己革新性”を不可欠の属性としてもつものでなければなりません。改革された教会は常に改革され続けなければなりません。さらに「非批判的伝統主義」に対して、キリスト教有神論というパラダイムに立った批判的学問性が必要とされています。宗教者一般によく見受けられる主観、熱狂、独善のみでなく、客観的、学問的脈絡が求められているのです。(参考資料:宇田進「日本の福音主義神学に未来はあるか」、他)
 最後に、「これらの四つの特質を保ちつつ、JECのルーツとアイデンティティの脈絡にかなう神学のあり方を示すものにはどのようなものがあるのか。」と問わねばなりません。私はそれにかなう神学のひとつとして、“ミラード・J・エリクソンの神学著作集”を推薦できると思います。エリクソンは、私たちと同じルーツのスウェーデン・バプテスト系のクリスチャンです。彼はバプテストと福音主義の遺産に忠実でありつつ、上記の四つの特質を宿す神学者です。「牧会者のハートと学者の知性」をもつ神学者とも言われます。彼の著書は「組織神学の傑作」と評価され、現在のアメリカのキリスト教大学や神学校で教派を越えて「基準書」として用いられています。実際読んでみての感想は、「多くの神学書は概念的であり“電話帳”を読んでいるような印象をもちますが、エリクソンの著書は魂のこもった“讃美歌”を歌っているようなのです。」ただ紙面が限られていますので、ここで詳しい紹介はできません。このエリクソン著作集をテキストにしました講義レジュメと講義テープは、山崎チャペル内“一宮基督教研究所”にありますので、必要な方はご連絡ください。またインターネットを通して「電子メール講義」を毎日配信していますのでご利用ください。(参考文献:ミラード・J・エリクソン「キリスト教教理入門」、他)

<結び>
 以上、JECの過去・現在を振り返りつつ、次の50年間における神学のあり方をひとつの試案として模索してみました。私は来世紀におけるJECの神学のあり方・方向性というものを真剣に考慮していくとき、“ミラード・J・エリクソンの神学”を無視することはできないと思います。私の提案としてですが、「エリクソンの神学をJECの“神学的座標軸”と位置づけ、その下にJECの過去と現在の霊的遺産を適切に整理し、そして今後展開していくであろう種々のムーブメントを適切に関係づける」というかたちで、JECの流れの中のよきものを継承・深化・発展させていく軌道を敷設することができると思います。このような堅実な神学的作業を通してJECは、①明確な聖書的適格性・正統的公同性を有する“神学的ルーツ・アイデンティ”を自己確認する群れ、②現代的適応性・自己革新性という神学的な意味での“未来展開可能な枠組み”を形作っていく群れ、③宣教のパトス(情熱)と神学のロゴス(論理)の両輪を駆動させる群れ、そして④保守福音派とカリスマ福音派の“架け橋的な位置”においてユニークな貢献をなす群れ、としてたゆむことなく前進し続けると思います。

【JECの源流と歴史的遺産 ①】 -三つの要素とJEC-

一宮基督教研究所:安黒務

■JEC理解の鍵
日本福音教会(JEC)は、英語でジャパン・エバンジェリカル・チャーチーズと表現されます。「日本」と「教会」の部分は分かりやすいのですが中心にある「福音(エバンジェリカル)」という部分はあまり理解されていません。しかし、この部分を正しく理解することこそがJEC理解の鍵なのです。
■JECの全体像
目の見えない三人が象の一部分を触って「象とはホースのようなものだ」「象とは柱のようなものだ」「象とはロープのようなものだ」と証言したそうです。これは正しい象の姿を表現しているでしょうか。私は信仰者としての初期に「ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』を読んだことのない人はJECのメンバーと認めたくありません。」と聞かされて「JECとは十字架のメッセージの群れなのか?」、聖霊カリスマ・セミナーで聖霊のバプテスマ(もしくは満たし)の経験すると「JECとはカリスマ的な群れなのか?」、スウェーデン宣教師の背景はスウェーデン・バプテスト諸教会と知ると「JECとはバプテストの流れなのか?」等々。私のJEC理解はその時その時に“カメレオン”の皮膚の色のように変化しました。そのようなJECの一員である私たちにとって「JEC」の一部だけではなく、その全体像を知ることはとても大切なことです。私はJECの全体像を理解するためのキーワードは「エバンジェリカル」であると思います。そこで、日本福音教会の名称の中心部分にある「福音(エバンジェリカル)」について十二回に分けて解説させていただきます。
■エバンジェリカルの意味
私は「福音(エバンジェリカル)」という意味には「イエス・キリストの死・葬り・復活の福音を単純に信じる」という素朴な意味と、「福音主義神学に立つ」という神学的な意味があると思います。私はKBIで「福音主義神学」という科目を担当しています。それは「福音主義キリスト教と福音派」(宇田進著)を基本テキストとして「神学生一人一人の所属教派の信仰の源流と歴史的遺産を探求する」ことを課題にしています。そこで教えられてきたことは、JECとは二千年の教会史において幾重もの発展や発達過程を経て生成を見るに至った生きた実体であるということです。
■三つの重要な要素
それでは、二千年の教会史における「JECの源流と歴史的遺産」を以下の三つの要素に注目しつつ見てまいりましょう。まず第一に、最も根本的な要素として神学的・教理的要素があります。つまり、何を信じているのかの問題です。JECは「聖書信仰」に立っていると主張されますように、穏健で中庸な、バランスのとれた一定の神学的立場に立っています。第二に、歴史的要素があります。JECの背後には、カリスマ運動、ケズィック運動、バプテスト運動、会衆派ピューリタン運動、等々の特定の歴史的運動が存在しています。よく「現在の根は過去に深く根ざしている」とか、「教会の歴史は現在を解明する」といわれるところです。第三に、社会的、文化的要素があります。JECという現象は歴史における一つの社会的・文化的現象という一面を持っています。区別できるJEC独自の行動様式を分析することによって、JECの立体的な把握を得ることができます。