Evangeliska Frikyrk

日本福音教会の母体となったスウェーデンの宣教団体「オレブロ・ミッション」は新たに「インターアクト」を経て「Evangeliska Frikyrkan(福音的な自由教会)」としてスウェーデン国内と世界各国でその働きを進めています。

Evangeliska Frikyrkan・・・それは教会であり宣教のムーブメントです。 スウェーデン国内に360教会29000人の信徒を擁しており、世界40カ国以上にわたって働きを進めています。Evangeliska Frikyrkan(InterAct)はホーリネス連合/自由バプテスト(Helgelseförbundet/Fribaptistsamfundet) とオレブロ・ミッション(Örebromissionen)とが発展的に合同した結果です。インターアクトとして1996年10月19日に教団設立し、1997年1月1日より活動を始めました。スウェーデンでは“Nybygget-kristen samverkan”を経て2002年9月から“Evangeliska Frikyrkan”(福音的な自由教会)と称します。


Evangeliska Frikyrkanの5つの活動

理事会はEvangeliska Frikyrkanの働きとしてさまざまなプロジェクトを通じて長期的な目標を達成するために次の5つの活動を発展させることを決議しました。これらの活動やプロジェクトの働きによってスウェーデンや世界各国においてEvangeliska Frikyrkanが何をしているのかを明らかにすることでしょう。

教会の開発

Evangeliska Frikyrkanの教会開発のためのプログラムの目的は「出会いの場」を創造することです。そこでは教会のリーダーや他の人々が自分の経験を分かち合い教会の発展のビジョンを語り合うのです。そのようなプログラムの枠組みの中で長期的な協力が地域教会間に形成されていくことができるのです。地域教会の現状から始め、その教会の発展と成長を促進していくのです。

教会の開拓

地域教会を開拓することはこの世界における神の救いの働きの目に見える現われです。教会形成には意識的な戦略がそれぞれの教会にもEvangeliska Frikyrkanにも必要とされます。そのプログラムには霊的洞察力と情報そして新しい教会がスタートできるための教会ごとの資源供給がなされなければなりません。我々の国際的な働き人の経験と熟練性がこの過程に役立つのです。

青年

Evangeliska Frikyrkanの青年プログラムは地域教会や地域の宣教団体などと連携して、それぞれの地で青年のムーブメントとなっていきます。国際的にも地域教会にも活発な青年活動を推進することを助けます。青年のムーブメントのさまざまな「出会いの場」における伝道、宣教、社会への関心、社会活動への参加などを通して熱心な弟子訓練へと導きます。

教育

教育のためのプログラムは、スウェーデンにおいてもその他の国々においても活動を動機付け整えるための重要なリソースです。このプログラムの責任は我々の既存の学校に分与されることになるでしょう。教育プログラムは次のものを供給します。

  • スウェーデンや世界各国での働きの備え
  • 霊的刷新の「出会いの場」、特に弟子訓練と霊的リーダーシップの養成
  • 社会や文化理解を反映した神学的探求
社会との関わり

社会との関わりはキリスト教信仰に基づいた人々への愛を行動に表すことです。社会との関わりのプログラムの目的は、教会が社会的なアクションを起こすことを支え、励ますことにあります。


国際的活動
開拓的宣教

今後、我々の照準は北アフリカ、中東そしてアジアのいわゆる10/40の窓と呼ばれる未伝の地域に移っていくことでしょう。そしてまた、我々の地域における無視された既存の宣教活動の発展をも意識しています。

パートナーシップ

これは我々のゴールに到達するための重要なパターンです。一致と相互自立のための表現として、伝統的な姉妹教会や国際的なネットワークと連携して資源のコーディネートと分かち合いがなされるでしょう。

包括的視点

Evangeliska Frikyrkanは福音と同様に社会的関心が人々に届くことを願っています。

グローバル

Evangeliska Frikyrkanはスウェーデンを土台としたグローバルな宣教となることを願っています。そしてその働きは世界規模の教会のリソースの一つとなるでしょう。特に、世界中に地域での働きを管理運営するための戦略的な地域センターの設立を包含します。


Evangeliska Frikyrkanのホームページ(スウェーデン語): http://www.efk.se
住所: Olaigatan 4-6, Örebro
郵送あて先: Box 1624, SE-701 16 Örebro, Sweden
電話: +46-19 16 76 00
ファックス: +46-19 16 76 11

オレブロ・ミッション創設者:ジョン・オングマン牧師

(1845年11月5日に生まれ、1931年2月28日に死す)

 ジョン・オングマン師の生涯とその働きを紹介しようとするならば、霊的な意味で、特筆すべき役割を演じた、この指導者に対し、その働きにふさわしい、充分な賞賛の言葉を見出す事が非常に難しいことを強調しなければなりません。当時、スウェーデンのキリスト教会の霊的な生活は決して高いものではなく、低迷を続けていたのであります。しかし、師は神の恵みによってキリスト教会の傑出した指導者であると同時に、その時代の最も用いられ、祝福された説教者の一人となりました。

軍人の子供からミッションの指導者へ

オレブロ・ミッションの創設者はジョン・オングマン師であります。師は1845年にスウェーデンのジャムトランド地方の素朴な一家庭に生まれ、成長しました。
回心の後、献身的なクリスチャンとなって、その地方のバプテスト教会に所属しました。数年間、信徒説教者でしたが、その後スウェーデンを去ってアメリカに移住しました。1868年から1890年まで、セント・バウロで神学的訓練を受け、シカゴ、およびセント・パウロで牧師として務めました。その後、スウェーデンに帰り、オレブロ第一バプテスト教会の牧師となりました。1881年、聖書学校を始め、その学校においては女性さえも伝道者として訓練しましたが、この事は、当時非常なセンセーションを巻き起こしました。1892年宣教師会が結成され、1908年には神学校がつくられました。そしてここで幾百人の牧師、宣教師が訓練されてきました。

オングマン師と聖書

米国滞在中、オングマン師は神の言葉に仕える者として、深い、霊的な訓練を受けました。師はシカゴ大学およびセント・パウロ大学に学び、その後数年間、この大きな国アメリカで働いておりました。大伝道者チャールズ・G・フィニーやドクター・A・J・ゴードン、ドクター・A・B・シンプソンなどの影響を多分に受けました。

暫時の霊的な戦いと、内面的な危機を経験した後、オングマン師は力強い方法によって真に自由にされました。オングマン師は神への強い信仰をもつており、非常に深い霊的な聖書教師となりましたが、その教えはこの聖なる書物の預言の部分から取られており、その一つ一つがスウェーデンの私たちのミッションである、オレブロ・ミッションの未来の指導者となるために師を育てる役割を果たしたのでした。
人々は好んで、師を「牧師先生」と呼びました。彼の外観は非常に印象的で、その深みのある音声は、善良で、敬虔な感情を与えましたので人々は「オングマン先生は、本当に神の預言者です。」と言いました。彼の神への信仰は、実に強固で、不変でした。

人々が新しい教会、すなわちフィラデルフィヤ教会をジャルンヴァグスガタンに建てておりました時、多くの物が必要でした。ある日煉瓦工が、師に「もう、一個の煉瓦もありません。」と言いました。そうしますと、師は「さあ、充分な煉瓦が与えられるように今、神さまに祈りましょう。」と言いました。彼らが祈り終わった時、鉄道の事務所から知らせが入り、貨車一杯の煉瓦がが届いており、それは教会宛のものだ、というのでした。人々が数えてみますと、建物のために必要な数に対し、ただの一個も、多くも少なくもなく、一個の欠けることもなく、全ての必要がちょうど満たされました。 それから、またお金を全部使い果たしてしまった時、一人の人が戸口に訪れてきて、オングマン師にたくさんの硬貨や貨幣を渡しました。その人は消えるようにいなくなりましたので、残された唯一の印象は、天使が訪れてきたというものでした。オングマン師は、全ての事において神により頼む人でした。

ある年、スウェーデンにひどい干ばつがあり、農夫たちは非常に心配し、すべてのクリスチャンたちは家庭や教会でその事のために祈りをささげました。ある日、とても大きな連合祈祷会がオレブロの最も大きな教会の一つで持たれました。その日の天気は乾燥しており、空は青く、オレブロに雨がやってくる気配はまったくなかったのです。オングマン師はその祈祷会に出かける時、傘とオーバーシューズを持って出ました。友人の何人かがその姿をいぶかしく思っていると、「私が祈祷会から帰る前に、雨が降るでしょう。」と言いましたが、その通りの事が起こりました。祈祷会が終わった時、先生は、祈りに対して素晴らしい答えを与えたもうた神を賛美しつつ、傘を高くさして歩いて帰りました。 敬愛する牧師であり、私たちのミッションの霊的指導者であったオングマン師は、このような人であり、まことに信仰と聖霊に満ち溢れた人でした。
(1977年5月10日「JECだより」第3号:宣教師 ヘルゲ・ヤンソン記)


オングマン師は、聖書の教えをなすために、スウェーデン中を歩きまわり、数多くの教会から招聘されました。師の教えが最高潮に達したのは、オレブロ聖書学校を開校した時といってよいでしょう。この学校では、聖書を深く、霊的に教えました。開校当初から、時々、祈りのために何日間か授業を休む慣わしがありましたが、あるときはそれが二、三週間にもわたることがありました。リバイバルの必要が、非常に強くせまってきた時には、学校はその必要のために祈り、また戦争のためにも祈りましたがオングマン師は常にその霊的指導者でした。このような祈りのときを通して、いつも多くの人々が、聖霊のバプテスマを受けました。ある人々は肉体の癒しを受け、また多くの青年達が、神の召し-伝道地に出て行くようにとの召命について神からの答えを受けました。オレブロ・ミッション・スクールにおけるこの祈りの時間、それは何日間も続けられたのですが、この時を通してすべてのものがより高いレベルへと引き上げられました。 オングマン師は真に祈りの戦士でありました。

オングマン師と外国伝道

主の証人として外に出ていくようにとの神の召しを受けた最初の人は、クラエス・エミル・ショグレンという名の青年でした。彼はオングマン師に願書を提出し、彼の召命の地、インドへ行けるように助力してほしいと頼みました。オングマン師は祈り始めました。すると献げ物が届き始め、ショグレンは英語の勉強のためイギリスに行くことになりました。しかし、彼は神の召しを受けた多くの若者たちの中のひとりにすぎません。この時以来、多数の男女が続々と世界の果てまで出て行ったのです。

オングマン師は、青年達に対して非常に暖かい心を持っていました。彼は青年達のことばに耳を傾けて彼らのために祈りました。それは主の委任を受けた、これらの人々の将来に信頼していたからです。今日、160名に上る宣教師たちが数ケ国において、伝道の働きをしており、インドでは1908年、ブラジルでは1912年、コンゴでは1914年、中国では1918年、エストニアでは1923年、日本では1950年、ネパールでは1955年、パキスタンでは1960年、タイでは1969年、フランスとバングラディッシュでは1972年、リベリヤとアフガニスタンでは1974年、アラブ世界では1976に、その働きを開始しました。

現在、オレブロ・ミッションの外国伝道部はスウェーデンにおける最大のもののひとつで、多数の男女が異なった伝道地への務めのために登録しております。世界中にいる160名の宣教師たちは現地の200名の牧師、伝道者と共に働いています。神学生たちは三ケ所の神学校と、四ケ所のおおきな聖書学校で訓練されています。診療所では、年間約6万名の患者が手当てを受け、20ケ所の学校において、3000名の子供たちが教育を受けています。青年達、助産婦、家庭婦人のためには種々の訓練センターがあります。9ケ所の孤児院では、数百名の少年少女たちがキリスト教教育を受けています。

牧師、教師、ミッションのリーダーとして

オングマン師は、牧師の務めをこの世の中で最高のものと考えておりました。この務めに比べうるものは何一つなかったのです。ですから、だれでもこの召しに入った人は、福音を宣べ伝えることにより、主の召しについて確信をもって働かなければなりませんでした。師は御言葉の豊かさを宣べ伝えることに熱心でした。そして、個人的に数千の魂をキリストに導きました。彼は「牧師はすべて自分自身の到達した以上に、他の人を導くことはできない。」という確信を持っていました。 彼は魂への情熱を持ち、母国においても、異邦人の世界においても、畑がどれほど熟して刈り入れを待っているかをみておりましたので、世界中の国々にひとりでも多くの宣教師を送り出そう、という思いに燃えておりました。

オングマン師は、イエス・キリストの再臨に関わる神の目覚まし時計でした。師は神の家族のメンバーたちに警告を与え、教え、目覚めさせようと努めていました。彼は私たちの時代における神の見張り役のひとりであり、イエス・キリストの再臨を信じておりました。

スウェーデンの最も偉大ななミッション指導者のひとりであったオングマン師は、1931年2月28日に主のみもとに召されました。
(1977年7月10日「JECだより」第4号:宣教師 ヘルゲ・ヤンソン記)

過渡期の偉大な指導者:ジョン・マグヌソン牧師

(1893~1971)

マグヌソン牧師は、長年にわたる伝道活動と牧師としての働きに続いて、オレブロ・ミッション本部における海外宣教部の主任を30年近く務め、その間、1960年の定年までの数年には、オレブロ・ミッション理事会の議長も務めました。

彼は、雄弁な説教者としての賜物を持ち、海外宣教地各地を訪れ、また、スウェーデンやスカンジナビア諸国間でも、大いに用いられていました。彼の奉仕の生涯は、福音宣教のために、生涯と未来をささげたいと願っているすべての若い人々にとって、本当にチャレンジであります。

海外宣教部主任として

マグヌソン牧師は、わたしたちのミッションの歴史上、最も重要な過渡期に生きました。すでにミッションの創立者と他の愛する兄弟達も死去していました。大きな問題は、ミッション本部内の各部で重要ポストを占める人事を定める事でした。そして、神さまはそれらの人々を備えてくださいましたが、その中で最も重要で活発であったのがマグヌソン牧師でした。

彼は大変英明な人格でしたが、それにも増して彼には宣教活動に対して燃える心がありました。また彼にはふさわしい伴侶であるフルダ・マグヌソン夫人が与えられていました。彼女は家庭を美しく保ち、すべての人を招きいれ、訪れる人すべてを歓迎しました。人々を助け、支援することに時間と興味をもっていました。この家庭で数名の子供たちが成長しましたが、今日彼らはスウェーデンの各地に住んでいます。

当時、海外宣教の働きは広がりつつあり、宣教師の数も増加し、わたしたちのミッションの世界的宣教活動は数ケ国に橋をかけていました。妻とわたしがミッションのある集会で極東アジアへの宣教師として任命された時、マグヌソン牧師と他の兄弟たちとが私たちの上に手をおいて、宣教師夫婦としての私たちの将来のために祈ってくださった時のことを決して忘れることができません。その時、私たちは御霊の力をはっきりと感じたのです。

マグヌソン兄弟は、海外宣教部主任としての働きの中で、キリスト教会の元来の姿について教えることを好みました。彼は、教会には現在実践すべき大きな仕事があることを指摘し、キリスト教宣教の差し迫った必要についてよく語りました。彼が語るときは炎のようでした。

彼は、イエス・キリストの再臨に関するメッセージに熱く燃えていました。「私たちに必要なのは、現実にリバイバルの必要を幻としている男女である。」と、彼はよく口にしていました。宣教師候補者たちに彼が常に勧めた事は、自分自身を主にささげて自らの願いよりも神の願われる事を進んで第一にすることでした。またあるときには、自分の息子のひとりが事故で死んだその1日後にこの兄弟はミッション本部にやってきて祈祷会でイエス・キリストの奉仕のために自分自身を再びささげたのです。

(1978年7月25日「JECだより」第10号:宣教師 ヘルゲ・ヤンソン記)

オレブロ・ミッション指導者:アールゴット・アールベック牧師

(1890~1950)

長年日本でのオレブロ・ミッションの本部となった主人の事務所の壁にはミッションの指導者であった人々の写真が掛かっています。その中にはすでに記載されたジョン・オングマン牧師や、ジョン・マグヌソン牧師の写真もあります。

今回は、その中のアールゴット・アールベックという良く知られた指導者を紹介いたします。私は彼と同じ地域に育ちましたので、彼をよく知っています。彼の聖い生活や御言葉への従順、心暖められるメッセージ、賛美に大変心を打たれたものでした。彼はオルガンを弾き、数々の集会でよく賛美をしてくださいました。そして彼は長年の間オレブロ・ミッション理事会の議長を務め、20年あまりの間神学校の教師として尊ばれました。また、1921年初刊発行の「ミッションの旗」という週刊ミッション新聞の最初の編集長でもありました。